怪盗の宝(補遺その1)/やめたまえ。ぼくは医者として、きみに命令する。

 『四つの署名』を児童書として出す時、もっとも気になるのは、やはりホームズのコカイン癖だろう。これについては、パシフィカ版《シャーロック・ホームズ全集》の巻末のエッセイ(ジョン・マレー版『四つの署名』の序文の翻訳)でも、グレアム・グリーンがこう述べている。

 今日、いったいどんな人気作家が、読者からの抗議を受けずに、主人公をこれほど大胆に麻薬常習患者として描くことができようか? 現代は寛容な世界になったとはいえ、それはただひとつの方向においてのみなのである。(深町眞理子訳)

 ぼくも、大人向けの翻訳を最初に読んだとき、もっとも衝撃を受け、だからこそ、それまで以上に好きになったのが、この退廃的なホームズ像であった。児童書としてこれを提示する方法のひとつは、当時のイギリスでは、コカインは違法ではなかったという説明であろう。日暮まさみちの講談社青い鳥文庫はこれをとっている。

 たしかに、百二十年後のいまだったら、ホームズは法律をおかしていることになるでしょう。でも、この当時、つまり一八八〇年代のイギリスでは、こうした薬品を買うのは違法ではありませんでした。(序文「「四つの署名」について」)

 また、一八九八年のイギリスの薬局方では、コカインの溶液の濃度は十パーセントと決められていたという資料もあり、それから考えると、ホームズのつかっていた量(七パーセント/引用者注)は少なかったということになります。
 とはいえ、コカインの使用が「いいこと」であるわけはありません。(解説)

 近年の児童向け翻訳は、ほとんどが原作に忠実に行なわれているから、コカインについてもそのまま訳している。しかし、1970年代まではそうでもなかった。ここで、例によって、これまでのおもな『四つの署名』の児童書リストを挙げておく。

  1. 『四つの署名』久米元一訳 講談社/世界名作全集117/名探偵ホームズ(2) 1955-10-15
  2. 『怪盗の宝』山中峯太郎訳 ポプラ社/世界名作探偵文庫 1954-06
  3. 『四つの署名』水谷準訳 東京創元社/世界少年少女文学全集46巻 1955-08-31
  4. 『怪盗の宝』山中峯太郎訳 ポプラ社/名探偵ホームズ全集7巻 1956-04-25
  5. 『四つの署名』柴田錬三郎訳 偕成社/世界名作文庫139/名探偵ホームズ 1956-09-05
  6. 『四つの署名』武田武彦訳 偕成社/名作冒険全集43/名探偵ホームズ3 1959-04-05
  7. 『四つのサインのなぞ』白木茂訳 岩崎書店/ドイル冒険・探偵名作全集11巻 1960-08-30
  8. 『四つの署名』久米元一訳 偕成社/世界推理・科学名作全集3/名探偵ホームズ 1962-10-01
  9. 『四つの署名』柴田錬三郎訳 偕成社/少年少女世界の名作11/名探偵ホームズ 1964-03-25
  10. 『四つのサイン』久米元一訳 講談社/世界名作全集34巻/名探偵ホームズ 1966-08-20
  11. 『四つの暗号』武田武彦訳 偕成社/名探偵ホームズ5巻 1966-12-25
  12. 『怪盗の宝』山中峯太郎訳 ポプラ社/世界の名作12/名探偵ホームズ(2) 1968-03-05
  13. 『四つのサイン』阿部知二訳 ポプラ社/シャーロック・ホームズ全集5巻 1970-01-25
  14. 『恐怖の4』久米元一訳 講談社/名作選名探偵ホームズ2巻 1972-02-20
  15. 『四つのサイン』塩谷太郎訳 集英社/名探偵シャーロック・ホームズ2巻 1972-11
  16. 『四つの署名』亀山龍樹訳 学習研究社/名探偵ホームズ10巻 1973-04-10
  17. 『古城の怪宝』久米穣訳 小学館/名探偵ホームズ全集2巻 1973-08-25(新版は4巻 1984-01-20)
  18. 『怪盗の宝』山中峯太郎訳 ポプラ社ポプラ社文庫 1976-12
  19. 『四つの署名』井上一夫訳 国土社/世界の名作 1977-12-20(新版1990-09-05)
  20. 『四つの署名』武田武彦訳 春陽堂少年少女文庫/シャーロック・ホームズの冒険4 1978-09-10
  21. 『四つの署名』中上守訳 偕成社/シャーロック・ホームズ全集2 1982-03(改版1983-07)
  22. 『インドの秘宝怪事件』小林司東山あかね訳 金の星社フォア文庫/ホームズは名探偵 1995-12
  23. 『四つの署名』各務三郎訳 偕成社文庫 1998-05
  24. 『四つの署名』日暮まさみち訳 講談社青い鳥文庫/名探偵ホームズ 1998-12-15


 すでに見たように、山中ホームズには、退廃的な雰囲気はなく、当然ながら、コカインのコの字も出てこない。しかし、例えば北原尚彦の『発掘! 子どもの古本』などで「完訳至上主義」から山中ホームズにかわって出版されたとされる、阿部知二訳のポプラ社『四つのサイン』の最初と最後を見ると、こんな風だ。

 ある日の午後、シャーロック=ホームズとわたしは、ベーカー街の下宿の居間で、ひじかけいすに腰をおろしていた。ホームズがたいくつそうにいった。
「ぼくは、頭をはたらかさずにいるのがきらいなのだ。ぼくは仕事がほしい。」(p6)

「ぼくはおかげで妻を得たのだし、ジョーンズは名誉をひとりじめにする。いったいきみの分はどこにのこっているというのだ。」
 ホームズはいった。
「ぼくは、むずかしい事件を解決することそのものが楽しみなのさ。」(p237)

 ここでも、コカインはすっかり姿を消している。コカイン抜きで原作に近い味わいをだそうと、ラストの文章など、うまく考えたとは思う。それでも、やはり「お子様向けの健全さ」になってしまっているのは否めないだろう。1970年の「大人の判断」はこのようなものだったと言える。

 水谷準訳の『四つの署名』や白木茂訳の『四つのサインのなぞ』は未見であるが、確認できたかぎりでは、作中でコカインを嗜むホームズを出した最初の児童書は、集英社版《名探偵シャーロック・ホームズ》の塩谷太郎訳『四つのサイン』だった。次に学習研究社版《名探偵ホームズ》の亀山龍樹訳『四つの署名』が続く(これはほぼ完訳)。前に見た集英社版『恐怖の谷』(久米みのる訳)のオープニング・シーンの文章は、原作とかけ離れていたから、訳者によって原作に忠実かどうか、かなりの差があるようだ。それは、偕成社版《名探偵ホームズ》や講談社版《名作選名探偵ホームズ》も同様で、原作への忠実度だけでなく、巻によってワトソンの一人称になったり、三人称になったりする。叢書としての編集方針がなく、訳者に一任されていたのだろうか。

 こころみに、いくつかの本の冒頭を紹介してみよう。

 諸君。
 ぼくは医学生で、もとイギリスの陸軍の軍医をしていた、ジョン・ワトスンというものだ。
(中略)
 では話をはじめよう。もっといすを、まえによせてくれたまえ。

 それはロンドン名物の霧が、町いちめんにまいおりて、一ヤードさきも見えないような朝のことだった。
 ホームズとぼくが、食卓にむかいあって、朝のコーヒーをすすっていると、こつこつと、ドアをノックする音がきこえた。
「ハドソン夫人だな。どうぞ」(講談社《世界名作全集》『四つの署名』久米元一訳/講談社《名作選名探偵ホームズ》『恐怖の4』久米元一訳も同じ)

 それは、ロンドン名物のきりが、ふかくたちこめている午後のことだった。
 わたしとホームズが、居間で話をしているところで、下宿のおかみさんのハドスン夫人が、はいってきて、
「ホームズ先生。わかいご婦人が、お会いしたいそうです」
 といって、名刺をさしだした。(偕成社《世界推理・科学名作全集》『四つの署名』久米元一訳)

 諸君、ぼくは、ジョン・H・ワトスンというものだ。ロンドン大学で、医学を勉強したぼくは、一八七八年に医学博士の学位を取り、さらに陸軍の外科軍医になるための研修をつんだ。(中略/ホームズとの出会いのエピソードが語られる)
 そして、この事件は、くしくもホームズが私立探偵を開業してから、ちょうど十三番目の事件だったのだ。

 あの事件が、ベーカー街二二一番地Bの下宿に持ちこまれたのは、ロンドン名物のミルクのような霧が、町いちめんに立ちこめている、九月中旬の午後のことであった。おそい昼食をすませたホームズとぼくが、いまでくつろいていると、階段をあがってくる足音が聞こえ、つづいて、ドアが、トントンとノックされた。
「ワトスン、下宿の女主人のハドスン夫人だな」(小学館《名探偵ホームズ全集》『古城の怪宝』久米みのる訳)

 ここのところ、しばらくのあいだ、謎の事件も怪事件もないので、われらの名探偵シャーロック・ホームズは、すっかりたいくつしていた。
「こんなことでは頭がナマクラになってしまう。何かむずかしい殺人事件でもおこらないかなあ。……いや、久しぶりにすばらしい冒険がしてみたいものだ。食うか食われるか、すごい悪漢と一騎打ちがしてみたい。どうも運動不足でいかん」
 などとホームズ探偵は、手足をぶるんぶるんふりまわす。よっぽどたいくつしているのだ。(偕成社《世界名作文庫》『名探偵ホームズ』柴田錬三郎訳 /《少年少女世界の名作》『名探偵ホームズ』も同じ)

「だめだ。やめたまえ。ぼくは医者として、きみに命令する。そのコーヒーぢゃわんを、テーブルにおきたまえ。」
「コーヒーを飲みすぎて、死んだやつはいないよ。」
 シャーロック=ホームズは、ぼく(ワトスン医師)の命令にそむいて、六ぱい目のコーヒーを飲むと、こんどは愛用のパイプに火をつけた。(偕成社《名探偵ホームズ》「四つの暗号」武田武彦訳/春陽堂少年少女文庫「四つの署名」は少しだけ文章が違うが、ほぼ同じ)

 柴田錬三郎のホームズは、原作とかけ離れた文章だが、それでも「ホームズの退屈」は踏襲している。久米元一や久米みのるは、それすらなく、またワトソンの懐中時計からホームズが行なう推理も省いて、モースタン嬢が尋ねてくるシーンからはじまっている。そして、前にも触れたが、このお二人の文章は、なぜか似ている。笑えるのが偕成社版《名探偵ホームズ》の武田武彦によるもので、オッ、ワトソンがコカインをとめているぞ、と思ったら、なんと、ホームズの悪癖は、コーヒーの飲みすぎであった。

 それにしても、コーヒーの飲みすぎだとか、「ちょうど十三番目の事件」だとか、「食うか食われるか、すごい悪漢と一騎打ちがしてみたい。」とか、訳者たちのイマジネーションには、並々ならぬものがあるといえよう。子供の頃のぼくだったら、こういうのが許せなかっただろうが、今は笑って読めるようになった。しかし、どうして「四つの署名」が十三番目の事件なんだろう。久米みのるを問いつめてみたい。