ミステリの分類(6)/二つの類別・その3――ゲーム派と非ゲーム派


 数回にわたって、探偵小説を二つに分類する基準をさぐっているのだが、なぜ二分法なのか、ということを少し述べておこう。あるものを体系的に類別する場合、その論理的な分類(区分)には、以下の条件が必要だという。

  1. 区分は、その各段階においては、ただ1つの区分原理によってなされなければならない。
  2. 区分された区分肢は、相互に排他的でなければならない。
  3. 区分は網羅的でなければならない。

 例えば小説を分けるのに、長篇と中篇と短篇に三分するのはいいが、イギリス小説と翻訳小説を歴史小説に三分するのはおかしい。二つ以上の項目に入る作品もあれば、どこにも属さない作品もでてしまう。これでは分類にならない。これをもっと簡単にまとめると、

  1. 区分の視点の一貫性
  2. 区分肢の排他性
  3. 区分肢の網羅性

 ということになる。吉田政幸の『分類学からの出発――プラトンからコンピュータへ』[中公新書/1993]によると、「以上の三つの規則を満足するもっとも簡単な区分の形式は二分割法である」(同書p65)という。例えば動物を脊椎動物無脊椎動物に、脊椎動物を哺乳類と非哺乳類に分ければ、排他的で網羅的な一貫性のある区分肢が得られる。いくつかの分類肢を並列する場合は、網羅性を確保するために、各クラスに「雑」項を設ける必要性もでてくる。(同前)

 二分法は、もっとも人間の思考しやすい分類でもある。陰と陽、内と外、昼と夜、明と暗、善と悪などなど対立する概念で分類することは、人間の思考の根本ともいえよう。こうした対立二項なら、先の分類の三原則もまもられている。動物と植物、男と女という分け方も、自然界がそうなっているというよりは、人間の思考がそうなっているがゆえの概念だろう。

 二分法の基準として、もうひとつ、注意すべきことがある。分けられた二つの分類群は、同等の価値を持たなくてはいけない、とする思想だ。先ほど例としてあげた脊椎動物無脊椎動物という分類をみてみよう。脊椎動物は脊椎という明示的な基準にしたがって分類されたグループといえる。しかし、無脊椎動物というのは、なんらかの明示的な基準があるわけではない。単に脊椎動物を選り分けた残り(=雑)である。これでは同等の価値を持つグループとは言えない。

 Aを単なる記号と考えれば、Aと非Aは等価である。非AをBと名づければ、Aは非Bになるからである。ところが幸か不幸か、人間が採用する分類基準の多くはただの記号ではない。そこで脊椎がある、脊椎がないという二つのグループは、必然的に等価ではなくなってしまうのである。なぜならば、脊椎があるという基準は人間の感覚によって重要であるとみなして採用した基準であるが、脊椎がないというのは、脊椎があるのをピックアップした単なる残りだからである。言い換えれば、脊椎がないという基準は、われわれの感覚が何らかの同一性をもつとみなして採用した基準では決してない。(池田清彦『分類という思想』p62)

 人間の認知パタンは、何かがある、ということを同類として認識できるが、何かがない、ということでは同類と認識できない。しっぽがないからといって、机と時計を同類とは思えないし、アヒルではないからといって、猿と白鳥を同類とは思えないのである。*1こうした「非A=雑」的な分類項から逃れるには、非Aが独立した言葉として存在する基準が望ましいということになる。動物と植物、男と女、などは、同等の価値を持つグループと言えるだろう。

 さて、以上のようなことを頭において、引き続き、探偵小説の二分法を検討をする。それは、探偵小説の本質的な要素には何があるかを、徐々に解いていく経路になる。その経路がはたして論理的か、はたまた面白いかは、さておいて。

 これまでに検討した二分法を、もう一度、確認しておこう。

 まず、探偵小説の基本構成要素に理知と扇情があるとして、この構成要素のどちらがより多いかによって、二つに分類しようとする試みである。探偵小説の中の知性派(理知的探偵小説)と、探偵小説の中のセンセーショナル派(スリラー)という分け方だ。理知と扇情が、排他的な対立概念なのかは、なかなか難しい。しかし例えば一般に左脳的・右脳的と呼ばれるように、人間の認識方法に理論的なものと感覚的なものがあるのだとすれば、この二つは分類基準として並列させてもいいのではあるまいか。とはいえ、非常に理知的な探偵小説と、極端に扇情的な通俗スリラーの違いはわかるものの、本質的に探偵小説が二つの混合物で出来上がっているのだとすると、完全な排他的な分類は不可能となる。あくまでも、傾向を示せるにすぎない。

 次に、探偵小説の基本的な物語構造を謎解きであるとして、謎解きに必要な手順を捜査と推理に分解し、どちらの面白さがより多いかによって、捜査型探偵小説と推理型探偵小説に分類する方法を検討した。これは、探偵の性格設定に注目すれば、努力型(行動型)と天才型(思索型)に分けられる。謎を解いていく面白さといっても一様ではなく、そこにいくつかのカナメがあることを示すことのできる分類法といえる。もちろん、これもどこまでが捜査で、どこからが推理なのか、厳密に区分することは不可能であるから、各作品を誰にも納得のいくように、どちらかにふり分けることはできない。

 さて、今回は、ゲーム探偵小説と非ゲーム探偵小説という分類方法について検討しよう。

 この分類法が出てくるのは、これまで何度も引用した江戸川乱歩の「探偵小説の定義と類別」(『幻影城』所収)である。乱歩はここで、「純探偵小説内部の類別」として、「ゲーム探偵小説」「非ゲーム探偵小説」「倒叙探偵小説」の三つをあげた。しかし、分類基準として見れば、この三つはいかにもバランスが悪い。区分の視点の一貫性がなされていないのだ。「倒叙」をどうしても入れたいのであれば、「正叙探偵小説」なるものを立項し、その上で、「正叙」を「ゲーム派」「非ゲーム派」の二つに分けるしかないだろう。乱歩自身は別のところ*2でゲーム派に言及した時、「倒叙探偵小説など無論問題外」としたように、倒叙型とゲーム派は両立しないと思っていたようだが、クロフツの『殺人者はへまをする』などを見ると、面白いかどうかは別にして、倒叙型ゲームというものもあるうる。つまり、この三つは区分の排他性も確保されていないことになる。いずれにせよ、「倒叙」という項目は探偵小説のゲーム性とは区分視点が違うので、ここでは扱わず、ゲーム派と非ゲーム派について考察していこう。

 乱歩によれば、ゲーム探偵小説とは「予め謎を解くべき多くのデータが明示され、それに基づいて探偵の推理が進められるので、読者は作中の探偵と謎解きを競う楽しみを味うことが出来る(少くとも出来るが如く感じさせるように書かれている)」タイプの探偵小説をいう。このゲーム性のために、「フェーア・プレイということがやかましく云われ」たとして、ヴァン・ダインやノックスの著名な探偵小説べからず集を紹介している。乱歩がここで分類した作家たちを含めてまとめると、こうなる。

  • ゲーム探偵小説  …… 読者と謎解き合戦が出来る(ように思わせている)作品。ポー、ドイル、フリーマン、クリスティーヴァン・ダイン、クイーン、カーなど。
  • 非ゲーム探偵小説 …… ゲーム派以外。J・S・フレッチャー、クロフツチェスタトン、ポースト、H・C・ベイリーなど。

 これとほぼ同じ分類法を提示した『鬼の言葉』所収の「探偵小説の範囲と種類」では、この非ゲーム派(とは言ってないが)に、ウォーレス、オップンハイム、ル・キューら、いわゆるスリラー作家たちも含めている。

 ネーミングを見れば分かるように、これは典型的なA・非A型の分類法である。排他的、網羅的なのは確かだが、「非ゲーム派」が「ゲーム派」を取り除いた残りかすであり、「ゲーム派」だけを分別しようとした分類であることは、明白であろう。「非ゲーム派」に入れられた作家たちの作風を見て、そこになんらかの共通項を見出すことは難しい。非ゲーム派は何をもとにまとめたグループなのか、明示できないのである。

 非ゲーム探偵小説に含まれる作風として乱歩が例示したのは、以下のものだ。

  • 推理の資料となるデータ(手掛り)殊に犯人を確定するに足る重要なデータが、小説の半ばごろまでに提出されないで、ごく終りの方になってはじめて出る為に、出たかと思うとすぐに解決になり、挑戦の面白さを味う余裕のないもの
  • 探偵をわざと凡人にする為に、データの思い違いなどが多く、読者は提出されたデータを不動のものとして信用し得ず、随ってゲーム興味の起こり得ないもの
  • 手掛りを提出しないわけではないが、しかし、それを一々刻銘に論理づけて行くことをせず、飛躍的に結論に達する作風

 最初の二つはほぼ同じに扱われ、「この型の探偵小説は「ゲーム」「挑戦」「フェーア・プレイ」など殆んど問題にしていないのである。」と説明される。代表作家として挙げられたのは、フレッチャーとクロフツだ。三つ目の作風には、チェスタトン、ポースト、ベイリーを挙げた。

 しかし、フレッチャーやクロフツは「ゲーム」や「挑戦」を考慮していなかったかもしれないが、フェア・プレイについては「殆んど問題にしていない」ことはない。少なくとも、クロフツはフェア・プレイを意識しているはずだ。さらに言えば、ポーやドイルが「ゲーム」や「挑戦」にどの程度まで自覚的だった大いに疑問である。ホームズ譚のどれくらいの作品が、「ゲーム」として通用するだろうか。またクイーンの後期作品が、どこまで「ゲーム」になるだろうか。

 謎解き合戦が出来るかどうかを分類項目としたのは、探偵小説の本質は「ゲーム」である、とする見解のためだろう。ある種の探偵小説は、確かにゲームとして通用するし、こうした面白さが探偵小説特有の面白さだとする意見もうなづける。論理パズル、推理ゲーム、謎々のような面白さが、探偵小説の一部にあることは間違いない。したがって、そうしたものを「ゲーム探偵小説」として取り出すことは可能である。

 しかし、探偵小説の歴史をみると、こうしたゲーム性が珍重されたのは、ほんの一時期でしかない。ポーには、いくぶんかは、その気があった。しかし、ディケンスからガボリオー、ドイルまでの流れでは、こうしたゲーム性は、ほとんど問題にもされなかった。ドイル以降、短篇探偵小説の量産時期のどこかで、ゲーム性ということが言われ始めたはずである。そして、概ね1940年代以降は、再びゲーム性はあまり問題にされなくなる。もちろん、今でも、ゲーム(作者との謎解き合戦)が可能な作品は存在するものの、作例は非常に少ない。*3少ないが故に分類項目としては不適切であるとはいえないが、では、はたしてこうして「ゲーム探偵小説」を別枠で取り出すことに、分類法としてどんな意味があるのだろうか。

 乱歩は、「非ゲーム探偵小説」を探偵小説の大きなグループとした理由を、こう述べている。

作者の力量は充分ありながら、ゲームの不可能な探偵小説というものがある。しかもそれらは前記の定義(「主として犯罪に――」の探偵小説の定義/引用者注)にもかなう立派な作品であって、これを探偵小説から除外することなど思いもよらない。私がゲーム専一主義に賛成し得ないのは、探偵小説界を折半するほどの力を持って、この種の作風が昔から存在するからである。(「探偵小説の定義と類別」)

 乱歩は「探偵小説の本質はゲームである」という説に反対する理由として、この「非ゲーム探偵小説」グループが「探偵小説界を折半するほどの力を持って」いることを挙げた。探偵小説は推理ゲームなり、とすると、そこからはみ出すものがあまりにも多いではないか、というわけだ。しかし、もしそれが本質でもなんでもないのなら、どうして「ゲーム派」を別枠でくくる必要があるのか、という疑問が出てくる。もし、それを本質と思うのなら、「ゲーム派」=「探偵小説」とし、それ以外は探偵小説ではない、とすればよい。しかし、「これを探偵小説から除外することなど思いもよらない」のである。これでは、単に「探偵小説の本質はゲームではない」ことを確認するために、とりあえず囲ってみました、というだけではないのか。積極的な価値観を見出すための分類ではなく、そうではないことを確認するための分類でしかない。それゆえ、「非ゲーム探偵小説」は雑多な作風の寄せ集めにならざるをえないのだ。

 「ゲーム派」を別枠で囲う積極的な理由は、ひとつだけある。それは、実際に「ゲーム」をやる場合だ。読み終わらなければゲームになるかならないか分からないのであれば、ゲームはできない。「ゲーム派」として分類されていれば、安心してゲームができる。実際に作者と推理合戦をやろうとする読者、そうした読み方をする読者にとっては、こうした分類はたしかに有効だろう。

 乱歩がこの「ゲーム派」「非ゲーム派」の分類を思いついたのは、セイヤーズが『犯罪オムニバス』第一集の序文で示した、ポーの作品の分析から提示した探偵小説の分類だった。セイヤーズの分類を、改めて、「探偵小説の定義と類別」の乱歩の説明をもとにまとめると、こうなる。

  • 純然たるセンセーションの探偵小説。謎が偶然に解かれたり、手掛りを態(わざ)と読者に隠しておくアンフェアなもの。 「黄金虫」
  • 純然たる分析の探偵小説 「マリー・ロジェの秘密」
  • 混合型 ドイル以下正統派探偵小説全部。

 「理知と扇情」の回で述べたように、たしかにセイヤーズはセンセーション派を区分するのに、手掛りが前もって読者に提示されているかどうか、においた。いくら推理がすばらしくても、手掛りが前もって読者に示されていなければ、「純然たるセンセーションの探偵小説」になってしまうのである。セイヤーズは探偵小説の内部にこれを設けたが、ヘイクラフトになるともっときびしく、ポーの「黄金虫」は「あざやかな推理の根拠になっている事実は、読者に解決があたえられた後まで伏せられている」(「後まで」に傍点)ために、「これは探偵小説ではない」という。(『娯楽としての殺人』)

 さて、ここでセイヤーズやヘイクラフトが問題にしているのは、じつは「フェア・プレイ」(手掛りを事前に提示している)であって、「ゲーム性」ではないことに気づくだろう。純粋に犯人当てゲームとして成り立たなくても、解決の前に、手掛りが読者に提示されていれば、セイヤーズもヘイクラフトも、満足(?)なのである。二人とも、クロフツがフェア・プレイをしていないとは(つまり探偵小説ではないとは)、思いもしなかったはずである。また、セイヤーズの作品がどれほど「ゲーム」として通用するかを考えてみてもよい。

 「ゲーム性」については、ヘイクラフト自身、こう述べている。

 探偵小説は作者と読者のあいだの『ゲーム』だということについては、いろいろといわれすぎている。このことは、作者が誤魔化したり、読者を不当に目かくししたりしてはならないという意味でなら、正しい。だが極端にはしって、このジャンルはまず対抗仕合いだという考えは、それから文学的な実質をうばいとり、機械的な謎のから騒ぎにさせてしまい、ついに沈滞におとしいれる傾きがある。(『娯楽としての殺人』「第11章 ゲームの規則」)

 結局、探偵小説は読者にたいして誤魔化し(「アンフェア」)をしてはいけない、ということである。純粋に「ゲーム」たれ、といっているわけではない。とはいえ、何が「フェア」でどこからが「アンフェア」なのかは、諸家で意見の一致を見ない。「ヴァン・ダインの二十則」にしろ「ノックスの十戒」にしろ、純粋にフェア・アンフェアの基準を決めたというよりも、こんな探偵小説を読みたい、という希望を述べているにすぎない気もする。*4そして、こうした「規則」は、大衆小説がまだ未熟な時期には意味があったかもしれないが、その歴史的役割はすでに終わっているだろう。

 しかし、フェア・プレイを物語の伏線と捉えれば、これはすべての小説に必要なものである。伏線があるからこそ、物語は納得できるのだ。恋人たちが結ばれるのも分かれるのも、そこに到るさまざまな要因が「手掛り」として示されるがゆえに、物語として理解される。これが出来ていない小説は、下手な小説であるにすぎない。探偵の推理もひとつの「物語」と解釈すれば、当然、それに到る伏線は必要である。

 いや、われわれの言う「伏線」はもっと厳密な推理の手掛り(クリュウ)であり、そこから唯一絶対の「正しい解答」が得られるようなものを指す、というのであれば、結局「ゲーム」という概念に近くなる。また、唯一絶対の「正しい解答」が得られるような作品は、それほど多くない(ほとんど、あるいは全くない?)。推理する手掛りを事前に読者に提示せよというのは、もちろん、当り前の話で、これが守られていない小説は、探偵小説黄金時代にはもちろん現在も、ないわけではないが、それは単にレベルの低い作品というだけの話である。つまり、伏線がきちんと張られていない小説ということで、話は最初にもどる。したがって、「フェア・プレイ派」というような分類は、非常に成立しにくい。どんな小説にも求められる要素を、あえて探偵小説の分類項目にすることもないからだ。

 純粋に「ゲーム」として分類すると狭くなりすぎ、フェア・プレイと捉えれば広くなりすぎる。また、残ったものは「雑」であり、共通の因子が明示できない。「ゲーム派」という分類項目は、現在、探偵小説(=ミステリ)の全体像を把握する上で、はたしてどれほど有効なのだろうか。

*1:以前述べた「醜いアヒルの子の定理」は、こうした人間の認知パタンにはないが、論理的に等価な基準での類別をいっている。

*2:「二つの比較論」の「2.探偵小説の本質」/『幻影城』所収

*3:以前、新本格ミステリの愛好家と話していて、こう言った時、猛烈な反撃をうけたが、しかし、世界的に見ても、また日本のミステリの全体数のなかの割合を見ても、純粋にゲームとして通用する作例は「少ない」と、ぼくには感じられる。ただし、これはぼくの感じ方なので、そう思わない人もいるのだろう。

*4:イクラフトが『娯楽としての殺人』の第11章「ゲームの規則」で的確にまとめているように、これらの規則はフェアプレイのためだけにあるのではない。半分は「探偵小説は読んで楽しいものでなければならない」というための規則となっている。