戦後ジュヴナイル・ミステリの系譜(6)

■1945〜1949(昭和20年〜24年)その6/通俗児童雑誌の乱立

 すでに述べたように、1949年から1951年にかけて、『赤とんぼ』『銀河』『子どもの村』などの「良心的」児童雑誌はすべて廃刊となる。最後に残った『少年少女』の終刊(1951年12月)のことばは、以下のような悲痛なものだった。

われわれの仕事はもうけ仕事ではありません。もとより損は覚悟です。しかし、全国の小学校でたった一冊ずつ買って下されば、それだけの数があればわれわれはこの仕事がつづけて行かれるのに、それだけの支持さえないことを考えると、今のわれわれのこの力の弱さをなげくと共に、やはりこの雑誌の存在理由のうすさを感じます。(『別冊太陽/子どもの昭和史 昭和20年―35年』p116より引用)

 相次いで廃刊となった「良心的」児童雑誌と入れ替わるように、1948年(昭和23年)から立て続けに創刊されたのが大衆的娯楽児童雑誌であった。これをもって、根本正義は「大衆児童文学の本格的な戦後の出発は昭和23年にはじまる」*1とした。娯楽系の児童雑誌は、戦前からあった『少年倶楽部』(1946年4月から『少年クラブ』)、『少女倶楽部』(1946年4月から『少女クラブ』)、『少女の友』に加えて、すでに『少年』が1946年11月に創刊されていたが、これらの雑誌は戦後数年は「良心的」児童雑誌と大きくかわらない編集がなされていた。いわば、「教養と娯楽の両立」を目指していた。しかし、この時期に創刊された雑誌は、娯楽中心の編集がなされたものがほとんどで、ケバケバしい表紙とオドロオドロしい題名の小説や絵物語で溢れかえっていたものも少なくない。創刊された主な雑誌には以下のようなものがある。(5年以上続いた雑誌は●を、5年未満のものは○をつけた)

  • ●野球少年    尚文堂   1947-04〜1960-11 ★痛快少年(1947-01)改題
  • ○少年ロック   ロック社  1947-11〜 →冒険世界(改題)1948-04?〜1949-03
  • 漫画少年    学童社   1948-01〜1955-10
  • ○冒険少年    日本正学館 1948-01〜1949-08
  • ●漫画と読物   新生閣   1948-04〜1953-12?
  • ○探偵少年   Gメン社→ロマンス社 1948-06〜1948-12
  • ●冒険活劇文庫  明々社   1948-08〜  →少年画報(改題) 少年画報社 1950-04〜1971-11
  • ○冒険クラブ   冒険クラブ社 1948-08〜1949-05?
  • ○少年世界    ロマンス社 1948-11〜1950-07
  • ○少女世界    富国出版社 1948-11〜1953-07?
  • ○東光少年    東光出版社 1948-12〜1951-03
  • ●少年少女冒険王 秋田書店  1949-01〜1983-04
  • ●少女      光文社   1949-02〜1963-03
  • ●少年少女譚海  文京出版  1949-04〜1954-03
  • ○少女ロマンス  明々社   1949-07〜1951-08
  • ●おもしろブック 集英社   1949-09〜1959-12
  • ●中学生の友   小学館   1949-01〜1957-03
  • ○面白少年    富国出版社 1949-02〜1949-07
  • ●太陽少年    妙義出版社 1950-04〜1955-06
  • ●女学生の友   小学館   1950-04〜1978-12
  • ●少女サロン   偕成社   1950-06〜1955-08
  • ○探偵王     文京出版  1951-06〜1954-02
  • ●少女ブック   集英社   1951-09〜1963-05

 まさに乱立という言葉がふさわしい。これらのうち、短命に終わった雑誌も多かったが、1955年(昭和30年)以降まで生きのびた雑誌は、やがてマンガ中心の内容となり、とくに『少年クラブ』『少年』『少年画報』『冒険王』『おもしろブック』は、月刊少年マンガ誌の黄金時代を築いていく。しかし、昭和20年代はまだ、活字読物が完全に力を失っていたわけではない。

 また、児童の就学年に応じて編集がなされる、いわゆる学年誌も創刊されていった。1946年2月には小学館から『コクミン一年生』『コクミン二年生』『こくみん三年生』が登場、すぐに改題され、1947年から1948年にかけて『小学○年生』と六冊の構成となった。つづいて1946年5月に、二葉書店の『小学○年』が六誌創刊、広島図書の『ぎんのすず』(低学年向)、『銀の鈴』(高学年向)は1946年8月に創刊された。学習研究社の『小学○年の学習』も1947年12月からはじまっている。これらの学年誌にも学習記事とともに娯楽読物が掲載されている。特に小学館学年誌は「学習ページもあるが、読物に重点がおかれ」*2、探偵小説、時代小説、少女小説、冒険小説、西部小説などが多く掲載された。前出の雑誌リストのうち、小学館発行の『中学生の友』『女学生の友』も娯楽系学年誌という扱いでもいいのかもしれない。学年誌にはマンガも掲載されたが、学習目的という建前もあってか、1960年代まで小説が中心となり、とくに『女学生の友』は娯楽読物中心の少女雑誌として生き延び、やがてジュニア小説というジャンルを生んでいく。

 通俗的児童雑誌が登場した直後に、「良心的」児童雑誌が次々と廃刊していった現象は、当時「怪魔にくわれた『銀河』」*3として捉えられた。「怪魔もの」とは、これらの雑誌に掲載され、のちに単行本化された小説の題名に「怪」や「魔」の字が多く用いられることからきた蔑称である。こうした怪魔ものは1950年を境に勢いをまし、1955年ごろまで児童出版界を席巻した。怪魔ものの流行は小説だけではなく、マンガの世界にもおよんだ。米沢嘉博は『別冊太陽/少年漫画の世界I』(1996)の中で、こう述べている。

 昭和23年3月のマンガ単行本刊行数は133点、冒険探偵物が圧倒的で、続くのがナンセンス物、講談物と名作絵物語がその次で、題名に「怪」と「魔」を冠したものが多い、と当時の調査は語っており、マンガブームは24年1月の600点でピークに達する。このマンガ単行本の大半が赤本マンガであり、教育関係者、PTAの非難の対象となった「俗悪マンガ」は別名「怪魔マンガ」とも呼ばれた。(p16)

 赤本マンガ・怪魔マンガは、東京の出版社系の上品かつ教育性に富むマンガと比較して、大阪発の下品で俗悪なものとして捉えられ、それを先導していたのが当時つぎつぎと作品を発表していた手塚治虫だった。米沢は「冒険探偵物「怪魔物」は、まちがいなく手塚マンガの子どもたちであった」(前出p16)と断言し、1950年から『漫画と読物』や『漫画少年』などに手塚が連載をはじめたのも、「赤本マンガの中央進出として印象づけられた」(同p69)としている。これに対して、「昭和24年には「週刊朝日」がトップ記事で「こどもの赤本――俗悪マンガを衝く」を掲載、親たちの関心はにわかに高まり、赤本マンガへの非難は日増しに高まっていった」(同p32)。怪魔ものの流行と悪書追放運動については、次の年代(1950〜1954)でもう一度触れることにする。

 当時の状況を、児童文学界はどうとらえていたのかは、次のような文章に端的に表れている。

(『冒険王』について)この雑誌は、はじめにふれたような内容(カストリ雑誌の子ども版/引用者注)をもったスリルと冒険を満載してあらわれ、たちまちのうちに発行部数の激増をみた。つまり営業的成績をあげはじめたのである。この種の小資本をもって出発した雑誌が、成績をあげはじめると、それまで、かなり大資本をもっていた講談社系や小学館系の雑誌が急に、これらの雑誌と内容のアクドサを競うようになった。編集者が、いわゆる良心をもっていても、背後からつきあげてくる営利攻勢に抗すべくもない。かくして、いま、『少年』『少女』『少女ブック』『面白ブック』などのように目をおおうが如きケンランたる児童雑誌が一世を風靡するような事態が現出してきたかにみえる。この間に、『銀河』とか『少年少女』とか『少年少女の広場』といった、いわゆる良心的な雑誌は、この世から駆逐されてしまったのである。つまり、児童文化の分野も「悪貨は良貨を駆逐する」という法則が、法則そのままに発現されたのだ。(猪野省三「少年少女雑誌を斬る」『児童心理』1954年7月号所収――根本正義「大衆児童文学の戦後史」(前出)より孫引き)

 論調はさておき、当時の出版状況を、ある意味、的確にとらえていると思う。1948年から次々と創刊された娯楽児童雑誌が子どもたちの興味をひき、反面、「良心的」児童雑誌は、雑誌を継続させる最低限の部数も売れなくなったのである。関係者の苦々しい気持が、まざまざと伝わってくる。

 しかし、「悪貨は良貨を駆逐する」とは、はたして適切な例えなのか。子どもたちが、なけなしのおこづかいをはたいて、わざわざ粗悪なものを読むはずがない。チェスタトンが言うように、「大衆は良い文学より悪い文学を好むもので、探偵小説を手にするのはそれが悪い文学だからであるというのは正しくない。(中略)良い探偵小説は悪い探偵小説より、ずっと好評を得るにちがいない」(「探偵小説の弁護」鈴木幸夫訳)のである。グレシャムの法則とは、実質価値の高い貨幣は家に保存されるため、市場には実質価値の低い貨幣だけが流通することを指している。同じ額面価値の商品がふたつあったとき、より実質価値の高い商品が先に売り切れ、粗悪な商品ばかりが店頭に売れ残ってしまう状況をさすのなら、とりあえず例えとしては正しい。ならば、子どもにとって良貨がどちらであったかは、判りきったことであろう。これは戦前のことであるが、次のような証言もある。

友人から〈大衆派〉の本を借りるためには、宿題の肩代わりをするとか、遠く離れた友人の自宅まで行くとか程度の条件など、もののかずではなかった。しかし、〈芸術派〉の本にはそんな魅力はなかった。早い話が、交換で本の貸借りをする場合、〈マンガ〉が第一級で、〈大衆派〉がその次で、〈芸術派〉の本は交換条件になり得なかったのである。(山本明・山中恒『勝ち抜く僕ら少国民世界思想社1985)

 「交換条件になり得なかった」、すなわち貨幣としての価値がなかったことになる。グレシャムの法則をあやまって持ち出すより先に、子どもたちにとって魅力ある作品(良貨)を創作する努力を怠った児童文学者たちを、まず責めるべきだった。「日本の児童文学がもし子どもたちにしっかりと依拠し、子どもたちの熱い支持を受けていれば、どんな嵐の時代がやってきても、そう簡単につぶされるなどということはありえない」*4のだから。この時期の「良心的」児童雑誌は竹山道雄の『ビルマの竪琴』、筒井敬介の『コルプス先生汽車へ乗る』、北畠八穂の『ジローブーチン日記』などの名作を生んだ。まったく無力であったわけではない。しかし、竹山道雄北畠八穂、少し後だが『二十四の瞳』(1952)の壷井栄らは、児童文学の専門作家ではなく、一種のアウトサイダーだった。そのためかどうか、芸術的児童文学者の集まりである児童文学者協会の良書選択リストから、『ビルマの竪琴』が除外されたこともあったらしい。*5彼らの意識は、次のようなものだった。

(娯楽児童雑誌の)筆者を見る時、その文学的力量を、子ども達のためにこそつくそうとして結集しているはずの児童文学者協会の会員が、ほどんど顔を出していないというのは、何を意味しているのであろうか。(中略)つまり、出版資本家達は、自分達の領域からこれら民主主義的な作家を追い払うことによって、子どもの民主主義的な成長を奪っているものということが出来るのではあるまいか。(寒川道夫「子どもと文学」岩波講座「文学」第二巻/1953)*6

 アウトサイダーには関心を示さず、自分たちが受け入れられないと「民主主義の危機」を訴える。しかし、もともと「良心的」児童雑誌の方が、印刷紙の特配を受けるなど、「やや特権的状況下でスタート」*7したのである。こうした権力による一種の保護政策により、また活字に飢えていた時代でもあって、戦後数年は「芸術的児童文学」が(ですら?)売れていた時代があったわけだ。しかし、紙の統制が解け、娯楽児童雑誌が次々に登場すると、それらはひとたまりもなくつぶれてしまった。受けなくなったとたん、それを「自分達の領域からこれら民主主義的な作家を追い払う」と認識するような姿勢が、長い児童文学の不振を生んでしまったと見るべきであろう。

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 ここで、「目をおおうが如きケンランたる児童雑誌」がどういう性格をもっていたか、またどんな作品を掲載していたか、木本至『雑誌で読む戦後史』(新潮選書)、Webサイト「密室系」内の「少年探偵小説の部屋」http://www2s.biglobe.ne.jp/~s-narita/new/shonen-index.htm や、「戦後日本少年少女雑誌データベース」http://manga-db.fms.co.jp/bgmag/index.aspx 、根本正義の「〈書誌〉『冒険クラブ』『冒険少年』『冒険ブック』―昭和20年代少年雑誌について」http://ir.u-gakugei.ac.jp/handle/2309/13464 などを参考に見てみよう。一口に通俗児童雑誌といっても、それぞれの雑誌の編集方針がすべて同じだったわけではない。

 『野球少年』と『漫画少年』は、戦前の『少年倶楽部』黄金時代を築いた編集者、加藤謙一が携わっていた雑誌である。『野球少年』は、1947年4月の創刊で、1号のみ発行された『痛快少年』を改題しての再出発だった。他の娯楽児童雑誌より早いスタートだが、「『痛快少年』の誌名では当時は反動的な雑誌と目されて、紙の配給を受けることが困難で改題した」*8というから、やはり「通俗・娯楽」=「反動」とされた時期があったのだろう。戦後、野球と民主主義は一体となって子どもたちの世界に浸透した。少年小説の一分野に野球小説があったのも、この時代の特徴であろう。加藤は創刊前の企画段階で関ったものの、公職追放となったため、表立っては顔を出せなくなる。しかし、編集長、関谷勇の回想によれば、この雑誌は「加藤イズムに貫かれ」*9、「全盛の23、24年には40万部も出て一時代を築いた」*10という。富田常雄の熱血野球少年小説『虹を射る少年』は連載終了後に、発行元の尚文社から単行本として出版されている。また、島田啓三の「打撃のガン吉」、寺田ヒロオの「背番号0」など、健全な野球マンガが掲載されたことでも知られる。まさに、「『少年倶楽部』の精神が野球を媒介として焼跡に甦った」*11ような雑誌だった。

 『野球少年』に掲載された小説やマンガは、野球ものだけではなかった。南洋一郎の痛快探検「大密林の獣王」や森下雨村の探偵小説「四つの暗号」なども載っている。しかし、中心はやはり野球情報であり、とくにアナウンサー志村正順が試合の経過を文章で再現した「誌上放送」は人気を集めた。加藤謙一が手がけたもうひとつの雑誌『漫画少年』も、1948年1月の創刊号から、戦後野球マンガの嚆矢といわれる井上一雄「バット君」が連載されている。しかし、この雑誌が戦後マンガ史において伝説的な位置を占めているのは、手塚治虫の「ジャングル大帝」を連載し、投稿欄からデビューした寺田ヒロオ石森章太郎藤子不二雄赤塚不二夫ら、いわゆるトキワ荘グループを生んだためであろう。とはいえ、マンガだけが掲載されていたわけではない。佐藤紅緑の『一直線』や『親鳩小鳩』、大佛次郎の『海の男』、南洋一郎の『アマゾンの大鰐狩』など、加藤の人脈からか、戦前の『少年倶楽部』掲載の作品が再録され、また探偵小説では、森下雨村が短篇やルパンもののリライト『鬼巌城』を寄稿している。多くのマンガ誌が刺激的内容の通俗路線に走るなかで、最後まで健全マンガを中心とした編集方針を替えず、1955年に廃刊。

 1948年4月に創刊された『漫画と読物』は、もともと小説中心の雑誌で、「当初、松本かつぢを表紙に使った上品なものだったが、やがて西部劇や時代物を表に出し通俗読み物誌へ変化していった。」*12南洋一郎の戦後の代表作「バルーバの冒険」シリーズが長期にわたり連載され、また久米元一の最初の雑誌連載探偵小説と思われる『謎のランプ』が1949年1月から1950年1月まで連載され、これは『仮面魔』と改題されて偕成社から単行本となった。1950年には手塚治虫の『タイガー博士の珍旅行』を載せ、大阪赤本マンガの中央進出として、識者から眉をひそめられる。しかし、最後まで読み物中心のB6判スタイルを守り、「絵物語やマンガの迫力を収めきることはできなかった」*13ため、マンガ雑誌としては生き残れなかった。

 最初からB5判というヴィジュアル型でスタートしたのが、『冒険活劇文庫』(のち『少年画報』)、『少年少女冒険王』(のち『冒険王』)、それに『おもしろブック』である。この三誌ともに、人気絵物語を売り物としてはじまった。まず、『冒険活劇文庫』が1948年の8月に永松健夫の『黄金バット』をメインに創刊され、続いて1949年1月には『少年少女冒険王』が福島鉄次の『砂漠の魔王』を看板に、同年9月には『おもしろブック』が山川惣治の『少年王者』を看板に、相次いで創刊された。『冒険活劇文庫』は引続き小松崎茂の『地球SOS』や伊藤彦造の名画集などを載せていたが、猪野省三の「少年少女雑誌を斬る」(前出)で「カストリ雑誌の子ども版」と呼ばれた『冒険王』も、小学館の子会社である集英社から出ていた『おもしろブック』も、やがて絵物語からマンガに移行していった。こうしたヴィジュアル系雑誌の好成績に、『少年』は1953年1月から、『少年クラブ』は1954年1月からB5判に変更され、月刊マンガ雑誌として生まれ変わる。しかし、1950年代までは各誌とも小説がなくなったわけではなく、『少年』連載の江戸川乱歩少年探偵団シリーズをはじめとして、横溝正史大下宇陀児香山滋高木彬光、島田一男、久米元一らの探偵小説も紙面をにぎわした。

 講談社集英社などの出版社の少年雑誌は通俗などと言われてもそれなりの品と質を持たされていたし、赤本に対抗して出されたマンガ誌は良質の児童娯楽を目指さなければならなかった。絵物語雑誌として出発した「冒険王」「少年画報」なども、少年誌の一流を望んでいるところがあった。だが、次々と群小出版社から創刊されていく雑誌は、赤本マンガと似たような発想で、より刺激の強い通俗娯楽誌の形をとることも多かったのである。(中略)言ってしまうなら、下世話でアカ抜けない、通俗大衆少年二流誌ということになるだろう。(米沢嘉博『別冊太陽/少年漫画の世界I』)

 こうして紹介されたのが、『少年少女譚海』(1949年4月創刊)と『太陽少年』(1950年4月創刊)で、両誌とも約5年間と比較的長く続いている。『譚海』は戦前に博文館から出ていた通俗雑誌で、山手樹一郎が編集長だったことでも知られる。それを戦後、文京出版が復刊させたもので、B6判ポケット・サイズの読み物雑誌だった。『雑誌で読む戦後史』によると、初代編集長の川崎真治は「戦前の『少年倶楽部』のような50万部の雑誌を目指し」、小松崎茂を表紙画家に使い、横溝正史の『夜光怪人』、高木彬光の『死神博士』、山中峯太郎の『君聞くか新生の声』、高垣眸のSF『恐怖の地球』、野村胡堂池田大作シリーズなどが連載された。山手樹一郎もアドバイザーとして協力したというが、やはり戦前の読み物雑誌の野暮ったいイメージから抜け出られなかったのかもしれない。「もう少しエゲツなく」という社長の要求に、「健全な雑誌でなくては50万部雑誌には育てられない」として、川崎は辞めたという。当り前だが、通俗雑誌の編集者たちにも矜持はあるのだ。『太陽少年』を発行していた妙義出版社は、1947年から時代小説、少女小説を中心に、大衆児童文学の単行本に力を入れていた出版社だ。創刊号から久米元一の『黒魔団』が連載され、のちに同社から単行本となった。

 そのほかの1940年代の短命群小雑誌についてはどうだろうか。

 『少年ロック』は1947年11月に創刊。創刊号には森下雨村の「少年探偵公平君登場」、海野十三の「天狗岩」が掲載、また水谷準の『獅子の牙』が連載を開始している。翌年に『冒険世界』と改題し、北村小松の「幽霊の手」、南沢十七の「宇宙怪魔王」、中沢ミチ*14夫の時代小説などが載ったが、1949年3月で廃刊。1948年1月創刊の『冒険少年』には、野村胡堂の戦後唯一の長篇少年小説『大宝窟』や海野十三の長篇『怪星ガン』が連載されたほか、香山滋の「黒衣怪盗団」などが掲載された。その香山の処女長篇小説『怪龍島』が連載されたのが、1948年6月創刊の『探偵少年』である。もっとも掲載誌が翌年に廃刊となったため、連載は『少年世界』に引き継がれる。『探偵少年』にはほかに、島田一男や森下雨村の短篇探偵小説も掲載された。

 『少年世界』の発行元ロマンス社は、1946年6月創刊の大衆娯楽雑誌『ロマンス』であてた出版社だ。「80万部の「ロマンス」を中心にロマンス社は「婦人世界」「少年世界」など6大雑誌を抱え束の間雑誌王国を築」*15き、一時は総売上げで講談社を抜いたというから、その勢いが推し量れるだろう。しかし急激な規模拡大が禍となり、1950年6月に倒産した。『ロマンス』をバックにもっていたためか、『少年世界』には吉田絃二郎、橋爪健、川端康成、牧野吉晴、小島政二郎など一流どころが寄稿している。香山は『怪龍島』に続いて『Z9』の連載を始めていたが、またも雑誌の廃刊で一旦中絶してしまった。つくづく不運なめぐり合わせといえよう。

 『冒険クラブ』には、1948年8月の創刊号から海野十三の科学冒険『超人間X号』と青江建児の怪奇冒険『魔島の少年王』、それに村上元三の時代冒険『白馬の密使』が連載された。次の9月号からは山中峯太郎の純情冒険『暁の平和塔』も連載を開始し、ほかに野球小説や秘境小説も掲載され、少年小説の主要ジャンルがそろった感がある。もっとも探偵冒険は登場しないままに、1949年5月号で終刊となった。『東光少年』は1947年から大衆児童文学の単行本を精力的に発行していた東光出版社の雑誌である。1948年12月に創刊され、吉川英治の『少年太閤記』、富田常雄の『少年姿三四郎』、尾崎士郎の『少年人生劇場』など、作者は一流どころだが、どことなくキワモノめいた題名が並ぶ。西條八十の『悪魔博士』(1949-01〜)の連載もあった。やはり読物中心の雑誌で、1951年3月で終わっている。

 少女雑誌は戦前の二大誌『少女クラブ』と『少女の友』が継続していたところに、1948年11月に『少女世界』が、1949年2月に『少女』が創刊された。光文社の『少女』は創刊号からの連載マンガ「あんみつ姫」が人気を呼び、また編集長黒崎勇の手腕もあって、1950年頃には「日本で一ばん沢山の読者を持つ児童雑誌」*16と自称するまでになった。黒崎は、童話作家ではなく一流作家の起用、付録の豪華さ、懸賞の奮発、漫画・絵物語の充実、スターシステムの採用など「他誌が子供の内にもっている子供らしさに呼びかけていたのに対し、その真反対の、子供が内に持っている大人的なものに呼びかけ(中略)黒崎勇の後にはペンペン草も生えない、と言われるほど、夢と実益の両方から貧欲に読者を刈りつくした。」*17。小説の執筆陣には久米正雄井上靖堤千代藤原審爾飯沢匡源氏鶏太田中澄江らの名前があるが、探偵小説では島田一男が『黄金孔雀』(1950-04〜)『三面人形』(1951-04〜)を連載している。黒崎はのちに『女性自身』を創刊、光文社を退社して祥伝社を興した。

 『少女』は1953年8月から、『少女クラブ』は1954年にB5判となり、ヴィジュアル化に対応した。一方、A5判のまま活字読物中心の編集を貫いた『少女の友』は1955年に休刊、やはり読物中心だった『少女世界』や1949年11月創刊の『少女ロマンス』、1950年6月創刊の『少女サロン』も短命に終わっている。『少女世界』には島田一男が『まぼろし令嬢』(1950-04〜)『仮面天使』(1951-06〜)を、高木彬光が『悪魔の口笛』(1952-07〜)を連載した。例外的なのは〈ジョトモ〉の愛称で親しまれた小学館の『女学生の友』で、A5判まま1960年代を生き延び、藤田ミラノ、藤井千秋の挿絵とともに少女小説からジュニア小説へと変身していった。

 このように娯楽児童雑誌には、昭和20年代(1940年代から1950年代前半)には、まだまだ大衆児童文学が多く掲載されている。しかし、マンガの時代はすぐそこに来ていた。大衆児童文学とマンガの橋渡し的な絵物語には秘境探検、西部劇、SF、怪奇冒険、時代劇と活劇を中心としたものが多く、探偵の出番は少ない。しかし、小説の世界では、「冒険」と一緒になってではあるが、「探偵」も力をもっていた。そうした小説の多くは娯楽児童雑誌に連載されたあと、単行本としてまとまった。すなわち偕成社の「冒険探偵」シリーズと、ポプラ社の「探偵冒険」シリーズだ。1940年代の末ごろからはじまり、1955年頃まで児童書の世界を席巻した、いわゆる「怪魔もの」の中心的存在である。

*1:「大衆児童文学の戦後史」三一書房『少年小説大系』月報連載/二上洋一編『少年小説の世界』(沖積舎)所収

*2:小松聡子『別冊太陽/子どもの昭和史 昭和20年―35年』p130

*3:1949年7月13日付「日本読売新聞」の滑川道夫のエッセイの題名。『別冊太陽/子どもの昭和史 昭和20年―35年』p103の鳥越信の文章から引用。

*4:鳥越信『別冊太陽/子どもの昭和史 昭和20年―35年』p105-106

*5:鳥越信『日本児童文学』(建帛社)p131

*6:鳥越信『日本児童文学』から孫引き

*7:本田和子『変貌する子ども世界』(中公新書

*8:孝寿芳春「『野球少年』復刊に寄せて」/「大衆児童文学の戦後史」(前出)より孫引き

*9:木本至『雑誌で読む戦後史』(新潮選書)

*10:同前

*11:同前

*12:米沢嘉博『別冊太陽/少年漫画の世界I』

*13:同前

*14:コード外漢字/「徑」の右側

*15:『雑誌で読む戦後史』

*16:朝日新聞1950年5月20日/『雑誌で読む戦後史』から引用

*17:『雑誌で読む戦後史』