山田風太郎の明治ものを読むときの補助として、作成してみた。
既読者を想定しているので、結末まで明らかにしている。
明治牡丹燈籠(警視庁草紙/第1話)
時代
明治6年10月
あらすじ
西郷隆盛は征韓論が破れ、鹿児島に帰ることとなる。東京を離れる西郷を見送ったのは、警視庁大警視の川路利良と二人の部下のみであった。
その部下のひとり、油戸杖五郎巡査が遭遇した事件は、内側から血びたしの紙で目張りをされた部屋の中で、濡れた夜具の上に恍惚とした死微笑を浮かべている死体が発見されるという、密室殺人だった。
三河町の半七親分のもとを訪れていた元同心の千羽兵四郎は、事件の概要を聞いただけでたちまち謎を解く。嫌疑をかけられた三遊亭円朝と、岩倉具視の暗殺を計画中の元旗本、大国源次郎を助けるため、新政府に反感を抱いていた兵四郎をはじめ、元岡っ引の冷酒かん八、元南町奉行の駒井相模守らが警視庁の裏をかくべく結束。駒井相模守は事件をもとにした怪談噺を創作した。
西郷が去った後、薩摩藩出身者が次々と辞職し(明治六年政変)、その中には司法省関係者も多かった。そのお別れパーティの席上、円朝が駒井相模守創作の「怪談牡丹燈籠」を披露、密室殺人を怪談として収束させる。
計画中の岩倉具視暗殺は、次話にもちこされる。
この作品について
『警視庁草紙』の第1話は、明治の東京で起こった密室殺人事件の謎をめぐって、警視庁と元南町奉行所の関係者たちがあらそう話である。いや、あらそうというよりは、「われわれはしょせん、滅んだ江戸の人間だ。死人同様たいくつしていたが、やっと浮世に面白いたねを見つけた。墓場の居眠りから這い出して、ひとつポリスどもをからかって、遊んでやろう」という元同心、千羽兵四郎の言葉にあるように、警視庁をからかうのだ。
元幕臣とその仲間たちが、薩摩・長州が中心となった官権側をからかう、というのが、『警視庁草紙』の基本的骨組みである。まともにあらそうのではなく、粋にからかう。勝者に理想があるように、敗者にも心意気がある、というわけだ。
悲壮な決意で国を創ろう、守ろうとする者たちの、ひとつの目的に向かって突き進む姿は美しい。しかし、それだけにとらわれていると、見失うものもある。美しい目的のために、悲惨な思いをする者たちもいる。その悲惨さを声高に叫んでも、目的を正しいと思っている者たちに大きな痛みはない。まなじり決して突き進む者たちが最も腹立たしい思いをするのは、自分たちのそういう姿を滑稽化されることだ、といいたいのだろう。これは、薩摩や長州のような田舎侍への江戸人の心意気ともとれるが、しかし、所詮は勝ち組に対する負け組みの「負け惜しみ」でもある。
ここで、「牡丹燈籠」が出てくるのは、これが死者が生者にたたる話だからであろう。死者の想いが生者を殺してしまう。あるいは、そう思わせてしまうほどに、死者の想いが強かった。死者とは、もちろん、「滅んだ江戸の人間」である。そして、その死者の想いを伝えることが出来たのは、「怪談牡丹燈籠」という、いわばウソの物語の力、それを演じた三遊亭円朝の話術の力なのだ。第1話で見事に、この物語の骨格を提示しているといえよう。
ところで、千羽兵四郎が謎を解くのは「目張りのある密室」である。ミステリには有名な「目張りのある密室」があるが、この「明治牡丹燈籠」では、そういう不可能興味は前面に出てこない。山田風太郎はのミステリ的な発想は、不可能興味よりも、とんでもない状況設定の方に向かう。今回も、被害者と加害者が協力して作り上げた密室、という謎解きの面白さより、かよわき美女が血みどろの男をのせた人力俥を引いて行った、という状況の面白さのほうが勝っている。
- 無印 実在の人物/舞台
- * 架空人物/舞台
- ** 他の創作内の人物/舞台
- $ 名前のみの登場
歴史背景/関連作品/舞台
- 征韓論(せいかんろん)
- 「日本の幕末から明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。(西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことであり、むしろ遣韓論)1873年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視、木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。【ウィキペディア】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96より抜粋(一部文章変更)」『警視庁草紙』は西郷が征韓論に破れ、薩摩に帰るところからはじまり、西南戦争の勃発で終わる。
- 明治六年政変(めいじろくねんせいへん)
- 「征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。【ウィキペディア】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%85%AD%E5%B9%B4%E6%94%BF%E5%A4%89より抜粋」第1話話では、明治六年政変により離職する司法関係者のお別れパーティの席上で、円朝が「怪談牡丹燈籠」を語るということになっている。
- $赤坂喰違いの変(あかさかくいちがいのへん)
- 明治七年一月十四日、赤坂喰違いで岩倉具視が襲撃された事件。第1話では計画中。詳しくは第2話「黒暗淵の警視庁」で。
- $伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)
- 明治初年には伝馬町囚獄署となっていた。羽川金三郎は明治四年から二年間、伝馬町牢屋敷に入れられていた。のちにここが舞台になったときに詳しく説明。
- $銀座煉瓦街(ぎんざれんががい)
- ラスト近くで、遠景に描写される。のちにこの街が舞台になったときに詳しく説明。
- 怪談 牡丹燈籠(かいだん ぼたんどうろう)
- 三遊亭円朝が創作した怪談噺。中国の「伽婢子」中にある一篇に、天保年間牛込の旗本の家に起こった事実譚を加えて創作したといわれる。この噺は都筑道夫の『黄色い部屋はいかに改装されたか』の第一章でも取り上げられているから、ミステリ・ファンはご存知だろうが、実は円朝の作品では、新三郎を殺したのはお露の幽霊ではなく、幽霊の仕業に見せかけた殺人、ということになっている。したがって、ここで円朝が演じたのは、より中国の原作に近い、その原型ということになる。実際に「怪談牡丹燈籠」が発表されたのは明治11年(1878)、すなわち西南戦争が終わった後で、これはつまり、事件の関係者がいなくなって、ほとぼりが冷めたと判断した円朝が、「真相により近い」ものを発表したというわけか。
- $塩原多助(しおばらたすけ)
- 正確には「塩原多助一代記」。三遊亭円朝作の人情噺。炭屋、塩原多助が貧から身を起こす立志美談で、愛馬の青との別れの場面が有名。のちに浪花節や歌舞伎になる。ここでは円朝の人情噺の例として。
- $安中草三郎(あんなかそうざ)
- 三遊亭円朝作の人情噺。「後開榛名梅香(おくれざきはるなのうめがか)」の一部で、一般に「安中草三」と呼ばれる。ここでは円朝の人情噺の例として。
- $真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)
- 三遊亭円朝作の怪談噺。元禄時代に出版された『死霊解脱物語聞書』をもとに、円朝が創作し、明治2年に現在の形で上演。「真景」は「神経」にかけられている。旗本、深見新左衛門が高利貸しの按摩、皆川宗悦を殺したことに端を発する因縁は、彼らの息子、娘にまでおよんでいくというもの。ここでは円朝の怪談噺の例として。
- $怪談 乳房榎(かんだんちぶさえのき)
- 三遊亭円朝作の怪談噺。絵師・菱川重信の弟子・磯貝浪江は重信の妻おきせに横恋慕、重信を殺してしまう。浪江はおきせと夫婦となり、さらに重信の息子を殺そうと企てるが失敗。浪江の子を生んだおきせは乳が出ず、乳房に腫れ物が出来、ついには狂い死にしてしまう。重信の息子は重信の亡霊とじいやの助けで、浪江を討つという話。ここでは円朝の怪談噺の例として。
- $半七捕物帳(はんしちとりものちょう)
- 岡本綺堂作。《捕物帳》の嚆矢。綺堂が半七老人の隠居先に言って、江戸時代の捕物話を聞く、というスタイルをとっている。千羽兵四郎は半七の手柄話に偶然が多すぎると、苦情を言う。具体的に「鷹のゆくえ」を持ち出すが、これは『半七捕物帳』の第二巻に収録されている短篇である。対して半七は、「偶然ということは、存外世の中に多いもんですぜ」とかえし、実際、この第1話もかなりな偶然を用いている。
- $玄冶店(げんやだな)
- 歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の有名な場面。お富のために全身に傷をおった与三郎が、数年後に偶然にも「婀娜(あだ)な姿の洗い髪」をしたお富に出くわす。「イヤサお富、久しぶりだなあ」お雪と羽川金三郎の出会いのシーンを聞いて、かん八が思わず「とんだ玄冶店だな」ともらす。
- $袈裟と盛遠(けさともりとう)
- 芥川竜之介の短篇小説「袈裟と盛遠」、衣笠貞之助の映画「地獄門」などでも著名な逸話。遠藤盛遠は源渡の妻、袈裟御前に惚れる。袈裟に夫殺しを頼まれ実行にうつすが、袈裟が夫に化けて身代わりになった、という話である。千羽兵四郎が羽川金三郎とお雪の関係を聞いて、ふと「袈裟と盛遠か。いや、ちょっとちがうが」と洩らす。たしかに、ちょっとちがう。
■■登場人物
◎警視庁関係者
- 川路利良(かわじ としよし)[1834-1879]
- 「維新後の1872(明治5)年、東京の治安維持にあたる邏卒(後の巡査)の総長に起用された。その後、警察制度視察のためにヨーロッパに渡った。1874(明治7)年に警視庁が創設されると、初代の総監となり、直ちに、巡査制や警察手帳、さらに交番制度、署長会議などを採用して、警察制度の確立に力を注いだ。(【鹿児島県歴史資料センター/黎明館】より/肖像ありhttp://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/bumon/history/kyodo/kgs06_s1_3.html)」鹿児島県警察本部前には川路利良の銅像がある。(ばかりか、芋焼酎「川路大警視」まで製造販売。http://www9.ocn.ne.jp/~show-chu/showchu.htm )前名、正之進。『警視庁草紙』の最大の敵役で、風太郎明治ものの要(かなめ)の人物のひとり。初登場のとき、「骨組みは大きいが、痩せて、蒼白な皮膚をしている。唇の両はしに垂れた髭はあまり立派ではないが、深沈たる眼は、この人物のただならぬ器量を示していた。」と描写される。西郷と共に薩摩に帰ることを希望するが、「国のため」東京で大乱を防ぐ役を引き受ける。密偵を使い、裏でさまざまな人物をあやつり、《明治のフーシェ》と呼ばれた。第1話の序章で川路は、薩摩に帰ろうとする西郷に「おつれたもっし」とすがりつくように頼んでいる。しかし、東京の、ひいては日本の治安を守ることこそが務めであろう、と西郷にさとされ、残る決心をする。もちろん、東京を去る西郷を川路が見送るというのは、史実ではない。しかし、去る西郷に対し、残って日本のため治安を守る川路、という構図を、実に的確に表すシーンといえよう。「先生、わかりもした!」と叫んだ川路が、何をどうわかったのかは、『警視庁草紙』の最終話で明かされる。『翔ぶが如く』(文庫3巻「大警視」の章)での川路は、西郷と行動を共にしようとする薩摩人警察幹部に「郷党のことは私事のみ。ポリスは国家を背負うものであることを思い、進退をあやまるなかれ」と死を賭して諭し、その姿を司馬遼太郎は「もはや宗教的情熱とさえいえそうであった」と書く。
- *加治木直武(かじき なおたけ)
- 薩摩藩出身の警部。第1話で、西郷が東京を去るとき、川路と共に見送った警察官のひとりとして登場。架空の人物と思われる。なお、鹿児島に加治木町という町があり、古く平安期にはじまる武家の加治木氏があったというから、このあたりから名前を取ったのではないだろうか。川路大警視が頼りにしている部下で、科学的捜査に努力を傾けている。当時としてはめずらしくピストルを携帯する。油戸巡査の上司で、密室殺人の捜査を指揮する。
- *油戸杖五郎(あぶらど じょうごろう)
- 仙台藩出身の巡査。西郷が東京を去るとき、川路と共に見送った警察官のひとり。六尺を超える巨漢。口髭、頬髯をはやしている。かつては鬼杖五郎と呼ばれたほどの棒術の達人で、警棒のかわりに六尺棒をかかえている。しかし、女房のおてねには頭が上がらない。維新以来の不遇で一時は物乞い同然の境涯に落ち、一人息子を栄養失調で死なせている。秋葉原の長屋に住む。円朝がからむ密室殺人に遭遇し、出世の機会とはりきって捜査するが、いっこうに謎は解けない。
- 菊池剛蔵(きくち ごうぞう)[1826-1903](=海後磋磯之介)
- 第1話では、水戸訛りの巡査としかわからない。司法関係者のお別れパーティに出席。
- 藤田五郎(ふじた ごろう)[1844-1915]
- 三十ばかりだが、年のわりにはひどく老けた印象の巡査として登場。第1話では、油戸の同僚巡査としかわからない。司法関係者のお別れパーティに出席。
◎南町奉行所関係者
- $駒井相模守信興(こまい さがみのかみのぶおき)
- 元南町奉行。慶応二年から明治元年まで奉行職にあった。瓦解後、将軍と共に静岡に行くが、明治五年夏に江戸にももどり、明治六年になって南町奉行所あとに小屋を建て、孫娘のお縫と共に住みついた、というのが『警視庁草紙』の設定。ただし、この第1話ではまだ名前だけの登場と奥ゆかしい。円朝が巻き込まれた事件の内容を聞いて、怪談噺を創作したことになっている。
- *千羽兵四郎(せんば へいしろう)
- 元八丁堀同心。『警視庁草紙』に登場時、二十六、七。月代をのばしてはいるもののちょん髷を結い、黒羽二重の着流しに、苦味と翳のある実にいい顔をした江戸前の粋な男。維新前に下谷の伊庭道場で心形刀流の免許皆伝をうけた腕前である。(ただし第1話では、まだそこまで分からない)柳橋芸者のお蝶を恋人にして、自堕落な生活を送っている。三河町の半七の家に立ち寄っていたとき、円朝にからむ事件に遭遇。密室殺人の謎はさらりと解くが、あとの始末は駒井相模守にすがって、とくに表立った活躍はない。
- *$蝶(ちょう)
- (お蝶)柳橋の芸者。第1話では名前だけの登場。千羽兵四郎とはかなりアツアツらしい。
- *冷酒かん八(ひやざけ かんぱち)
- 三河町で髪結い床を営む、半七の岡っ引時代の最後の手先。冷酒を飲みながら客に剃刀をあてるという、ぶっそうな男。背は低いが、顔も身体も鞠みたいにまるい。『警視庁草紙』に登場したとき、三十歳ほどだった。ノスタルジアから、町を歩くときは懐に捕縄をもっている。第1話では、円朝が巻き込まれた事件で半七に助けを求めに来る。
- **三河町の半七(みかわちょうのはんしち)
- 岡本綺堂が創作した江戸時代末期の捕物名人。明治になって引退し、赤坂で隠居暮らしをしている。『警視庁草紙』に登場したときは五十一歳で、綺堂が昔話を聞きに訪れる二十年ほど前のこと。何かといえば「別の物語には、別の主人公が出るがいい」と、回顧談を語るほかは、実際の事件には関わろうとしない。新政府にさからってお縄頂戴になることを心配している。半七は江戸時代にやるべきことをなしとげ、あとは昔を懐かしんでいればいい世代の代表である。だから、明治が舞台の『警視庁草紙』では直接事件にからむことはない。江戸時代に生まれ、なすべきことをなさないままに明治をむかえてしまった者たちが、この物語の主役となる。
- **仙(せん)
- 半七の女房。ちょっと顔を見せる程度。
◎政治家/官僚/壮士/軍人など
- 西郷隆盛(さいごう たかもり)[1827-1877]
- 「鹿児島生まれ。明治維新の指導者、政治家。鹿児島藩主島津斉彬に取り立てられる。安政の大獄と斉彬の死を契機に入水自殺を図る。その後、公武合体を目指す島津久光のもとで活躍するも、久光と衝突し、配流。召還後、第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍。以後、討幕へと方向転換をはかり、坂本竜馬の仲介で長州の木戸孝允と薩長連合を結ぶ。勝海舟とともに江戸城無血開城を実現し、王政復古のクーデターを成功させた。新政府内でも参議として維新の改革を断行。明治6年(1873)征韓論に敗れ下野。10年(1877)郷里の私学校生徒に促されて挙兵(西南戦争)するが、政府軍に敗北し、自刃した。(【近代日本人の肖像】http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/85.html?c=0より)」『警視庁草紙』は西郷が征韓論に破れ、薩摩に帰るところからはじまり、西南戦争の勃発で終わる。実際の登場は、この第1話のみで、ここでの西郷は「お相撲さんみたいにふとったからだに、裾短かの薩摩絣の太い兵児帯をしめ、にゅっとつき出した素足に藁草履をはい」ていて、いわゆる《上野の西郷さん》のイメージのままの姿である。以後、各地で反政府の乱が起こるが、鹿児島でじっと動かず、西郷の影はこの長篇全体を不気味に覆っている。
- 小牧新次郎(こまき しんじろう)
- 西郷隆盛の従者で、西郷と共に薩摩に帰る。【鹿児島県歴史資料センター/黎明館】の資料http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/gendai/seinan/kgs04_s4_2.htmlに、「辞職した西郷は従者小牧新次郎と下僕熊吉を伴って日本橋の自宅を出、庄内藩用達の米問屋越後屋の別荘にしばらく身を寄せ、10月末、横浜を出帆し、11月初めに鹿児島の屋敷に着いた。」とある。
- 熊吉(くまきち)
- 西郷隆盛の下僕で、西郷と共に薩摩に帰る。小牧新次郎を参照。
- 大久保利通(おおくぼ としみち)[1830-1878]
- 「鹿児島生まれ。政治家。明治維新の指導者。島津久光のもとで公武合体運動を推進。やがて討幕へと転じ、薩長連合を成立させる一方、岩倉具視らと結んで慶応3年(1867)12月、王政復古のクーデターを敢行。版籍奉還や廃藩置県を推進し、新政府の基礎を固める。参議、大蔵卿を経て明治4年(1871)特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行。帰国後、内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握。地租改正、殖産興業の推進など、重要施策を実行した。西南戦争に至るまでの各地の士族反乱を鎮圧するも、11年(1878)士族に暗殺される。(【近代日本人の肖像】http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/32.html?c=0より)」大久保暗殺犯の元加賀藩士たちは、第6話「残月剣士伝」から登場。『警視庁草紙』では大久保が表に出ることはない。大久保、西郷、江藤などによる政治の表舞台の裏で起こっていたさまざまな事件を描くのが目的だからだ。裏の事件を描くことで、表の事件に新たな解釈、別の意味づけがなされていく。
- $岩倉具視(いわくら ともみ)[1825-1883]
- 「京都生まれ。公卿、政治家。父は権中納言堀河康親。岩倉具慶の養嗣子。安政元年(1854)孝明天皇の侍従となる。5年(1858)日米修好通商条約勅許の奏請に対し、阻止をはかる。公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人として尊皇攘夷派から非難され、慶応3年(1867)まで幽居。以後、討幕へと転回し、同年12月、大久保利通らと王政復古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。明治4年(1871)特命全権大使として使節団を伴い欧米視察。欽定憲法制定の方針を確定し、また皇族、華族の保護に力を注いだ。(【近代日本人の肖像】http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/23.html?c=0より)」征韓論を闘ったライバルとして、西郷から「右大臣、よく踏んばった」との言葉を引き出した。岩倉具視の暗殺計画の詳細は、第2話「黒暗淵の警視庁」で語られる。
- $篠原国幹(しのはら くにもと)[1836-1877]
- 「薩摩藩士。藩校の造士館で学び、戊辰戦争に参加。上野での戦いで、彰義隊が最も要害とする黒門口を攻め落とし、武勇をとどろかせた。後に陸軍少将となり、近衛隊の創設に尽力。1871年、大和田原で行われた明治天皇観覧の陸軍大演習において、暴風雨で天皇自らも全身ずぶぬれになる中、篠原が指揮をとり、見事な奮戦ぶりを示したため、天皇が彼を近くに召し、篠原に習えという意味から「今日よりこの地を習志野原と名づけ、操練場と定む」と褒めたたえたのが習志野の地名の由来といわれている。(【習志野市ホームページ】http://www.city.narashino.chiba.jp/konnamachi/midokoro/sansaku/h15/sansaku063/index.htmlをもとに作成)」西郷隆盛と共に政界を去った人物の一人として名が出る。
- $村田新八(むらた しんぱち)[1836-1877]
- 「日本最初の英語辞典を編纂した高橋新吉の従兄弟の高橋八郎の子として生まれる。幼少の頃に村田家の養子となり、10歳の頃から西郷隆盛に可愛がられていたという。1862年、寺田屋事件に連座して鬼界ヶ島に流されるが、1964年に西郷と共に赦免され、以後はほとんど西郷と共に行動する。【幕末維新館】http://www.geocities.jp/ishin_kan/person/person-mu.htmlより」西郷隆盛と共に政界を去った人物の一人として名が出る。
- $桐野利秋(きりの としあき)[1838-1877]
- (=中村半次郎)「「人斬り半次郎」という異名を持つ。西南戦争のとき、西郷軍の事実的総司令官で、熊本城奪取を豪語していたものの失敗。西郷の切腹を見届けたあと、最後の突撃を敢行し数十発の弾丸を浴びながら壮絶な戦死を遂げた。【西南戦争の十一人】http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kirino1.htmより抜粋」坂本竜馬の暗殺犯人の説もある。西郷隆盛と共に政界を去った人物の一人として名が出る。
- $別府晋介(べっぷ しんすけ)[1847-1877]
- 「薩摩藩士。鹿児島城下吉野村実方で別府十郎の次男として生まれる。中村半次郎の従兄弟。戊辰戦争で薩摩軍の分隊長として東北各地を転戦。西郷の密命を受け、朝鮮半島の軍事偵察に赴き、73年帰郷。鹿児島では私学校の設立に尽力し、幹部となる。西南戦争で西郷の後を追い、自刃。【幕末維新館】http://www.geocities.jp/ishin_kan/person/person-he.htmlより」西郷隆盛と共に政界を去った人物の一人として名が出る。
- $辺見十郎太(へんみ じゅうろうた)[1849-1877]
- 「薩摩藩士。19歳の時、戊辰戦争に薩摩二番小隊長として従軍し、奥州白河城攻撃に突進して手柄を立てる。翌年、鹿児島常備小隊長となり、2年後には近衛陸軍大尉に抜擢される。西郷隆盛が征韓論に敗れて下野すると、それに従い近衛将校を辞職し、帰郷。西南戦争で西郷の死後、岩崎谷堡塁に飛び込み斬り死にする。【幕末維新館】http://www.geocities.jp/ishin_kan/person/person-he.htmlより」西郷隆盛と共に政界を去った人物の一人として名が出る。
- $江藤新平(えとう しんぺい)[1834-1874]
- 初代司法卿を務め、司法制度の整備に尽力。また、廃藩置県を行ったり、東京遷都を建白するなど維新の中核を担った。征韓党の首領として「佐賀の役」を起したが、政府軍に敗れる。『警視庁草紙』では、江藤新平の行動の裏には、川路良利の策略があったことになっている。第1話ではまだ、川路の上司だった前司法卿として名があがるのみ。
- 大木喬任(おおき たかとう)[1832-1899]
- 「佐賀生まれ。政治家。父は佐賀藩士。藩校弘道館に学び、勤王派として藩政改革を推進。新政府に出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などをつとめる。東京奠都にも尽力。明治4年(1871)文部卿となり、学制を制定。6年(1873)参議兼司法卿。萩の乱、神風連の乱で、反乱士族の処分にあたる。13年(1880)元老院議長。また民法編纂総裁として法典編纂に関わる。17年(1884)伯爵。21年(1888)から枢密顧問官を兼任し、翌年枢密院議長となる。第1次山県内閣の司法相、第1次松方内閣の文相を歴任。(【近代日本人の肖像】http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/30.html?c=0より)」江藤新平が去ったあと、司法卿となる。名前があがる程度で、とくに物語にはからまない。
- 山岡鉄舟(鉄太郎)(やまおか てっしゅう)[1836-1888]
- 「東京生まれ。剣術家、幕臣、宮内官僚。幕末から明治にかけて剣客として活躍。安政3年(1856)幕府の講武所で剣術の教授方世話役となる。文久3年(1863)浪士組の浪士取扱となり上京。慶応4年(1868)15代将軍徳川慶喜の警固役として精鋭隊頭に任ずる。徳川家存続のため駿府へ赴き、西郷隆盛に談判。勝海舟との会談を実現し、江戸城開城に貢献。維新後、静岡藩権大参事、伊万里県令などを経て宮中へ出仕。侍従や宮内小輔などを歴任し、明治天皇の側近として仕えた。(【近代日本人の肖像】http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/207.html?c=0より/山岡鉄太郎で記載)」ここでは円朝のひいきで、司法省関係者のお別れパーティに円朝をまねく人物として。
- $雲井龍雄(くもい たつお)[1844-1870]
- 「米沢藩出。幕末に活躍した憂国の士。中島惣右衛門の次男で幼名猪吉。のち小島才助の養子となり小島辰三郎を名乗る。雲井龍雄は彼の最も知られた変名。幼少から秀才として知られ、興譲館に通って、その書籍を読み尽くしたともいう。当時の興譲館が朱子学一辺倒だったことから反骨精神旺盛な龍雄は講義に出席しなくなり、甘粕継成の好意で蔵書を借り出して勉強していた。結局、興譲館からは放校処分とされてしまった。高畠で仕事をしながら漢詩を作っていたが、江戸勤務となり安井息軒の塾で頭角をあらわす。その後、藩命で京都にて工作活動に従事。長州・土佐の志士と深く交流していた。戊辰戦争に突入すると「討薩の檄」を作って薩摩藩の野望を批判した。戦後、上京して意見書を提出するが明治政府に取り入れられず、新政府に不満をもつ人々を集めて密議を行った。このため内乱罪で逮捕され、小塚原で斬首された。享年27歳。(【やまがたなんでも大図鑑】より)」明治初期の謀叛人の一人として名が出る。
- $河上彦斎(かわかみ げんさい)[1834-1872]
- 「肥後藩士。文久3年、30歳の時、肥後藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推される。この頃から「人斬り彦斎」(幕末四大人斬りの一人)と呼ばれ佐幕派を多数斬る。我流の片手斬りの名手であったと言われている。八月十八日の政変後、長州へ。長州では、三条実美の警護士を務める。元治元年6月の池田屋騒動で新選組に討たれた宮部鼎蔵の仇を討つべく再び京へ向かう。元治元年7月11日、公武合体派で開国論者の重鎮、佐久間象山を斬る。この象山暗殺以降、彦斎は人斬りを行っていない。第二次長州征伐の時、長州軍に参戦。長州軍は勝利を上げる。慶応3年に帰藩するが、佐幕派が実権を握る肥後藩であった為投獄される。大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦いの時期は獄舎で過ごす。慶応4年2月出獄。佐幕派であった肥後藩は、彦斎を利用して維新の波にうまく乗ろうとするが彦斎は協力を断る。維新後、開国政策へと走る新政府は、あくまでも攘夷を掲げる彦斎を恐れた。参議広沢真臣暗殺の疑いをかけられ明治4年12月斬首。しかし、この暗殺事件に彦斎は無関係といわれ新政府の方針に従わなかった為の斬首とみられる。(【ウィキペディア】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E5%BD%A6%E6%96%8Eより抜粋)」明治初期の謀叛人の一人として名が出る。
- $久世大和守(くぜ やまとのかみ)
- 老中。千葉県にあった旧関宿藩主。西日比谷の屋敷が、明治になって司法省になったため、名が出る。なお、享保年間に久世大和守の下屋敷だったところが、現在の清澄庭園である。
◎文化人/芸人/町人/博徒など
- 三遊亭円朝(さんゆうてい えんちょう)[1839-1900]
- 「自ら創作した噺、講談に近い分野で独自の世界を築く。当時日本に導入された速記法により記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷(1864-1909)に影響を与え、1887年(明治20年)「浮雲」を口語体(言文一致体)で書いて文壇に衝撃を与えた。また海外文学作品の翻案にも取り組んだ。時の有力者で元勲・井上馨(1835-1915)の知遇を得て、身延山参詣(1886年明治19年1月8日)、北海道視察(明治19年8月4日より9月17日)に同行した。1887年明治20年4月26日井上馨邸(八窓庵茶室開き)での歌舞伎天覧時に招かれ、また井上馨の興津の別荘にも益田孝(1848-1938)らと共に招かれている。(【ウィキペディア】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E5%9C%93%E6%9C%9Dより抜粋)」『警視庁草紙』では、ザンギリ頭の三十半ばの男で、羽川金三郎の側に住んでいたため、殺人の容疑をかけられるはめに。山岡鉄舟がひいきにしている落語家として、第1話のラストで「怪談 牡丹燈籠」を披露する。【ウィキペディア】によると、『警視庁草紙』の悪役である井上馨の厚遇も得ていたようだ。
- $沢村田之助(三代目) (さわむら たのすけ)[1845-1878]
- 円朝の妻のもとの夫として名が出る。(「田之助」と言われるのみ)「幕末から明治にかけて、女形として一世を風靡した。脱疽という体の一部が腐っていく業病に冒され、横浜にいたヘボン博士の手術により右足を腿の部分から切断。ほぼ片足だけになった田之助は右足切断後も舞台に出続ける。しかし、その後も病は進行し、更に次の手術で左足の膝から下の部分を切断。最後にほぼ両手、左手の小指を除くすべての部分を失ってしまった。【関心空間】http://www.kanshin.com/keyword/767153より」
- $岡本綺堂(おかもと きどう)[1872-1939]
- 「イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、敬之助(後に純(きよし))の長男として、東京高輪に生まれる。東京府立一中卒業後、1890年、東京日日新聞入社。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、1913年まで24年間を新聞記者として過ごす。1891年、東京日日新聞に小説『高松城』を発表。1896年、『歌舞伎新報』に処女戯曲『紫宸殿』を発表。1902年、『金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)』(岡鬼太郎と合作)が歌舞伎座で上演される。この作品の評価はいまひとつだったようだが、その後、『維新前後』や『修禅寺物語』の成功によって、新歌舞伎を代表する劇作家となり、『綺堂物』といった言葉も生まれた。1913年以降は作家活動に専念し、新聞連載の長編小説や、探偵物、スリラー物を多く執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説『半七捕物帳』の執筆を開始。(【ウィキペディア】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E7%B6%BA%E5%A0%82より)」岡本綺堂が半七老人の昔話を聞くずっと前の事件、ということで、名前が出た。
◎その他創作人物
- *羽川金三郎(うかわ きんさぶろう)
- 旗本で円朝の隣人。明治四年三月に岩倉具視暗殺を計った嫌疑で逮捕、二年間も入獄されていたが、無実とわかり保釈。内側から血びたしの紙で目張りをされた部屋の中で、濡れた夜具の上に恍惚とした死微笑を浮かべている死体で発見されため、円朝の「怪談牡丹燈籠」の萩原新三郎のモデルとなった、というのが、山田風太郎の妖説である。
- *$大国源次郎(おおくに げんじろう)
- 元旗本で羽川金三郎の友人。密かに岩倉具視暗殺を計画中。第1話では名前のみ。
- *雪(ゆき)
- 飯田家のお嬢さまで、羽川金三郎の元恋人。のち大国源次郎妻。「明治牡丹燈籠」に登場時は二十五、六。(油戸巡査は二十七、八と判断しているが、このときはさることでやつれていたので、やや老けて見えたのだろう)この世のものではないような凄艶な美貌をもつ。かつての恋人、羽川金三郎を刺したのち、自ら人力俥を引いて瀕死の彼を住まいまで運んだ。円朝の「怪談牡丹燈籠」のお露のモデルとなったというのが、風太郎説。第2話「黒暗淵の警視庁」で油戸杖五郎の尋問中に自害。
- *常(つね)
- お雪付の女中。「明治牡丹燈籠」では昔馴染みの半七に、お雪が起した事件をうまく収めてもらおうと助けを求め、円朝の「怪談牡丹燈籠」のお米のモデルとなったというのが、風太郎説。第2話「黒暗淵の警視庁」では千羽兵四郎に大国源次郎の行方を捜してくれるよう頼んでくる。
- *$飯田平左衛門(いいだ へいざえもん)
- お雪の父親。岩倉具視の馬車馬に蹴られて死亡。名前が出るだけで実際の登場はない。