深夜の謎/補遺その2

 続いて、小学館版《名探偵ホームズ全集》の『赤の怪事件』、訳者は偕成社版と同じ久米元一である。ぼくの手元にあるのは、1983年から1984年にかけて出た上村一夫挿絵のものだが、じつはこれは1973年から1974年に出版された小学館版《ホームズ全集》の再刊本なのである。全15巻は同じだが、なぜか巻数構成が違っていて、『赤の怪事件』は最初の全集では3巻、後の全集では5巻になっている。訳文は、一冊だけ(『のろいの魔犬』)確認したかぎりでは、同じである。


 やはり、偕成社版と同じように、ホームズとワトソンの出会いや、ワトソンのホームズ研究のエピソードはなく、冒頭にワトソンの短い経歴とホームズ紹介があって、さて、事件は次のように幕開けする。

 それは三月はじめの、寒い朝のことだった。ホームズとぼくが、朝食のコーヒーを飲んでいるところへ、使い屋が、一通の手紙を持ってはいってきて、ホームズにわたした。
 ホームズは、パイプをくわえたまま、手紙を読んでいたが、読みおわると、むずかしい顔つきをして、じっと考えこんだ。
「ホームズ、なにかだいじな用か?」

 こちらはワトソンによる「ぼく」の一人称である。前回紹介した偕成社版と比べると、文脈は似てはいても、文章は違っている。二人が飲んでいるのが紅茶からコーヒーに変わっているのがご愛嬌だ。こちらのホームズはまだそれほど有名ではないようで、最初にホームズに疑いの目をむけるランス巡査も、グレグスン、レストレード両警部の知り合いということで、ホームズを認めている。

 こうした変更は全編にわたっていて、第一部と第二部のつなぎ部分も、偕成社版と小学館版は同じ構成をとっているのだが、文章はすべて書き直されている。ただ、グレグスンが金髪だったり、ランス巡査がひげをはやした大男なのは同じなのだ。ホームズに呼ばれてのこのこベイカー街にやってきた犯人が、正体をあばかれたときに叫ぶ台詞も、かたや「うぬ、やりやがったな!」(偕成社)であり、かたや「うぬ! やりゃがったな!」(小学館)と微妙に違う。

 第一部の題名も「あき家の怪事件」(偕成社)と「あき家の惨劇」(小学館)で似ているが、第二部は偕成社版は「復しゅうの鬼」だが、小学館版は「荒野の冒険」だ。フェリアがモルモン教徒に助けられる心境は、それぞれ次のように表現されている。

モルモン教徒――ということばをきいたとき、フェリアの顔に、ちらりと、くらいかげがさした。フェリア自身は、キリスト教徒であり、モルモン教徒とキリスト教徒は、いつもなかがわるかったからだ。(偕成社


モルモン教徒』ということばを聞いたとき、ジョン・フェリアの顔に、ちらりと、くらいかげがさした。フェリア自身は、キリスト教徒だったからだ。(小学館

 また、ラスト・シーンは原作どおり、ワトスンがローマの守銭奴のことばを持ち出してホームズをなぐさめるのだが、原作と違って、そのあとホームズが一言、感想を述べる。

「ははは、してみるとぼくは、ローマの金貸しというわけか」
 ホームズは、パイプをくわえたまま、長いすの上にごろりと横になると、
「事件ととっくんでいるさいちゅうはおもしろかったが、すんでしまうと、つまらないな。またとうぶん、たいくつな時がつづきそうだ。」
といって、しずかに目をつぶるのだった。(偕成社


「なるほど、するとぼくは、ローマの守銭奴というわけか。まあ、そんなことはどうでもよい。とにかく、ワトスン、きみさえぼくの実力を認めてくれれば、満足だ」
 ホームズはそういうと、いつものように、愛用のパイプをくわえ、長いすの上に、ごろりと横になるのだった。(小学館

 偕成社版の、なんだかコカインの注射器でも取り出しそうな雰囲気に比べ、小学館版では、ワトスンに認められることで満足している。念のために言っておくと、原作のこのシーンには、パイプも長いすも出てこない。ちなみに、阿部知二版は、「それ(事件の記録を発表する)まできみは、この事件を解決したのがじつはじぶんなのだということを考えるだけで、心をなぐさめておくことです。」というワトソンの台詞で終わっていて、ローマの守銭奴への言及はない。

 こうして細かく文章を見ていると、おそらく、久米元一は自身の既訳書をもとにして、もう一度、リライトしているような気がする。久米元一による『緋色の研究』のリライトはこの他にも、偕成社の《世界推理・科学名作全集》の『名探偵ホームズ・四つの署名』(1962-10)に含まれる「緋色の研究」や、講談社の《名作選名探偵ホームズ》の第一巻『赤い文字の秘密』(1972-02)などがある。それぞれが、どう異なるのか、誰か比べた人はいないのだろうか?(「日本シャーロック・ホームズ協会」の研究発表なんぞで、あってもおかしくないと思うが……)

 次は学習研究社(学研)の《名探偵ホームズ》の第九巻『赤い文字の秘密』。この叢書は亀山龍樹の個人訳である。*1

 亀山版は原作と同じ章立てで、第一部「ワトソン博士の記録から」、第二部「聖徒の国」をはじめ、各章の題名もほぼ原作に則っている。ワトスンの一人称は「ぼく」。ざっと目をとおしたところ、文章の省略もほとんどなく、ほぼ忠実な翻訳といっていいようだ。ただ、題名を『緋色の研究』としなかったため、ホームズはこの事件を「赤い糸のなぞ」と呼び、最後にワトソンに、「僕らの緋色の研究の成果は――」(延原訳)というところは、「これが今度の事件の結果さ。」となっている。

 また、あとがきにもあるように、注記は本文中に組み込まれる形でなされている。モルモン教についてもきちんと説明があり、ブリガム・ヤングについては、

辞典をひもといてみると、ブリガム=ヤング大長老は一八〇一の生まれで、はじめはペンキぬりの職人や、ガラス屋などをしていた。モルモン教徒となってのち、ノーブォーでジョーゼフ=スミスが暗殺されると、すいせんされて大長老になり、一八四六年から四七年にかけて西へうつり、一八四八年、現在のユタ州ソルトレーク市をうちたてた――と、かんたんにしるしてある。

と本文で解説されている。

 最後は、もっとも新しい児童訳の《講談社青い鳥文庫》の日暮まさみち訳『名探偵ホームズ 緋色の研究』を見てみよう。

 先に日暮雅通は、今年になって完結した光文社文庫のホームズ全集で、延原謙、大久保康雄に次ぐ3人目の個人全訳者となった、と記したが、実を言うと、この《講談社青い鳥文庫》で、すでに個人全訳をなしていたのだ。つまり日暮雅通は、児童向け翻訳では、山中峯太郎に次ぐ2人目の全訳者であり、一般向け、児童向けを個人でなした最初の翻訳者なのである。

 日暮といえば、日本シャーロック・ホームズ協会の重鎮であり、ホームズ研究でも名高い。だから、児童訳も原作に忠実に行なわれている、と思っていた。たしかに、ワトソンの一人称は「わたし」で、地の文も会話も、原作を省略させながらも雰囲気をそこなうことなく、うまくまとめている。しかし、この本では第一部、第二部という構成をとってなく、犯人が過去の物語を語る部分は、久米元一版と同じように、ワトソンの診察のあとになっている。ラストはこうだ。

「いやいや、だいじょうぶさ。ぼくはこの事件のことをくわしく日記に書いてあるから、そのうち世間に公表してやるよ。」
 その結果が、いま読者が読んでいる手記なのである。

 無闇に原作に通りにするのではなく、こうした、子供にもわかりやすいような構成の変更、ちょっとしたことばの追加など、さすがに長くホームズに親しんできた訳者の手によるものだけのことはある。

 こうして、ざっとではあるが、さまざまな児童版ホームズ訳を見てみると、それぞれに特徴をもち、甲乙つけがたい魅力がある。たしかに山中版ホームズは大人が読んでも面白く、そしてもっとも笑えるが、しかしまた、現在では大人が読むからこそ楽しめる、という面があることも否定できない。珍品ばかりを持ち上げるのではなく、児童向けホームズの面白さを、引き続き味わっていきたい。海外小説の児童翻訳の全体像を見すえながら、とまでいうと、ぼくの手には負えないけれど。

 おまけとして、代表的な児童向けホームズの翻訳書の、各作品の邦題をまとめてみた。以下のURLで確認できます。ちょっと見にくいけど、ご勘弁を。

http://www.asahi-net.or.jp/~JB7Y-MRST/HST/SH001.html

*1:現在、5巻目までが、ポプラポケット文庫で再刊されている。