欧米探偵小説のナラトロジー 前田彰一


欧米探偵小説のナラトロジー―ジャンルの成立と「語り」の構造

欧米探偵小説のナラトロジー―ジャンルの成立と「語り」の構造


『欧米探偵小説のナラトロジー前田彰一を読んだ。ナラトロジーって「物語論」という意味らしい。副題が「ジャンルの成立と「語り」の構造」となっている。


「ジャンルの成立」を記した部分には、あまり新しい知見はなかった。プロパーでない人が、これまでの代表的なミステリー論集をまとめました、という感じである。それはそれで、参考にはなるけど。

ちょっと気になったのが、井上良夫にふれて、「探偵小説の実作者の意見に――」(p52)とか、「自身探偵小説作家である井上良夫の次のような言葉が――」(p81)とか述べられていること。井上良夫を「実作者」とする見解はあまりなかったと思うが。

しかし、本書の第五章「探偵小説の「語り」をめぐって」で触れられるハードボイルド派についての所見には、どうかと思われる記述が多い。例えばハードボイルドの成立を述べる以下の記述。

1930年代にアメリカにおいてダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーによって新たに創出されたジャンルであるハードボイルドやアクション小説は、それまでの伝統的な探偵小説もしくは推理小説のジャンルから生まれたいわば落とし子(雑種、変種)ともいうべきものであった。また、それらのジャンルからは、第二次世界大戦以後ジェイムズ・ボンドふうのスパイ小説が派生した。(p179)

「ハードボイルドやアクション小説」と一緒にするのはいかがなものか。また、「ジェイムズ・ボンドふうのスパイ小説」がハードボイルドの流れにあるとするのは(こうした意見が全くないとはいわないが)一般的ではあるまい。

論理的な謎解きを主題とする本格探偵小説は、結末を知ってしまうと再読には耐えないものであるが、ハードボイルド・スタイルの典型ともいえる『赤い収穫』は再読しても飽きることがない。(p194)

こうした記述を読むかぎり、著者自身ははハードボイルドがお好きなようなのだが、しかし、

彼(サム・スペード)の行動を支配する究極の原理は、犯人は誰かを知ろうとする欲求よりも、刻々と展開する事態を前にして、人間を律する正義とは何かを追求し、それを貫徹しようとする倫理的な姿勢である。(p191)

というような紹介をされると、わたしは『マルタの鷹』を読もうという気にはならないなあ。ハードボイルド=アクション小説という「俗説」のままに論がすすむかんじで、

これによって探偵小説の要素と犯罪小説の要素とが混ぜ合わされるが、そのかわり暴力的な力ずくの探索と発見が行なわれるようになり、犯人の身元もすぐに割り出される。そして残るは、犯人の隠れ家を付きとめ、その仮面を暴き、彼を逮捕することだけとなる。
 通常の探偵小説では読者にとってなじみの日常的な世界が描かれ、そこが謎めいた犯罪の舞台となるのに対し、アクション小説で描かれる世界は、読者が住んでいる非暴力的な、おとなしい世界とは著しいコントラストをなしている。ギャングたちの世界では、日常茶飯事のように盗み、密輸、盗品の売買、売春、そして殺人が行なわれる。(p180)

とか、

ハードボイルド小説の典型である『赤い収穫』と古典的な本格推理小説との本質的な相違点は、前者が後者の物語としての基本的構成原理である知的パズル形式を完全に放棄したことである。(p195)

などという文章を読むと、この人、本当にハードボイルド・ミステリーを読んだのだろうか、と疑問になってくる。もしハードボイルドがこうしたものなら、それは「探偵小説」の一ジャンルではなく、別のジャンルの小説というしかないだろう。ハードボイルドを「推理小説のジャンルから生まれたいわば落とし子(雑種、変種)」とするのなら、そこには「謎解き」の要素がなくてはならないのは自明であろう。この本でも引用されているシモンズの『ブラッディ・マーダー』の次の言葉のように。

ハメットの作品は、形式と文体が革新的であったにもかかわらず、その筋立てにおいては、正統的な探偵小説の中核である謎解きの要素をそっくりそのまま継承したものといえる。(『ブラッディ・マーダー』p208)

そして、古典的探偵小説とハードボイルド・ミステリーの違いを述べたいのなら、こういえばいいのだ。

しかしながらハメットの最良作にあっては、それらの謎解きも実はストーリー展開のきっかけにすぎず、読者の興味をそそるための最終目標ではないのだ。(『ブラッディ・マーダー』)