「架空リアリズム」について


今年になってから、児童文学に興味をもち、にわか勉強にいそしんでいる。「児童文学におけるミステリーの流れ」を把握しようとしているのだが、なかなかこれが一筋縄ではいかないのだ。ネットを検索しても、あまり参考になる資料や意見がないのが現状である。少なくとも、「児童文学におけるミステリーの流れ」をきちんと概観したものでは、谷口俊彦が1978年に発表した「悪漢と少年たちの楽園―ジュヴィナイル・ミステリ雑考」(『帝王』9号)以上のものは、まだ見つけられずにいる。


ネットで見つけた資料では、国際子ども図書館の講演記録に面白いものが多い*1佐藤宗子が連続講演『児童文学の流れ』で行なった「エンターテイメントの変遷」や、神宮輝夫の講演記録「冒険小説への誘い」などは大いに参考になった。児童文学研究誌「日本児童文学」の1994年4月号の特集「児童文学に描かれた〈犯罪〉」も、なかなかいい企画で、児童ミステリーに興味のある人は、目を通しておいた方がいいだろう。なにせ、にわか勉強なので、基本資料がなにかも分からず、手探りで歩いている状態である。

この「児童文学に描かれた〈犯罪〉」の中では、佐藤宗子の「冒・犯・侵の構図――描かれた「犯罪」を追って」が最も読み応えがあった。ここでは、児童文学のミステリーだけでなく、『Yの悲劇』や『私が殺した少女』や『殺人の棋譜』などにも触れられている。二階堂黎人の某作品に言及して、「最初の推測通りとわかって若干拍子ぬけしたほどである。」と感想を述べていることからしても、かなりのミステリ好きなのだろう。

さて、その「冒・犯・侵の構図」の冒頭で、佐藤宗子はこう述べている。

児童文学と犯罪の接点を考えるとき、まず思い浮かぶ作品、そして用語がある。その作品とは、ケストナー『エーミールと探偵たち』。そして、鳥越信が提唱した「架空リアリズム」という用語である。

この「架空リアリズム」という用語については、(「冒険小説の未成熟」、『日本児童文学の特色』〈講座=日本児童文学第三巻〉所収、を参照されたい)と注記されている。

「架空リアリズム」という言葉で思い出すのは、江戸川乱歩の「二つの比較論――探偵小説の範囲とその本質」(『幻影城』所収)にある文章である。この中で乱歩は、探偵小説の本質を何処に求めるかの諸説を紹介し、「風俗小説派」について語ったときに、以下のように述べている。

風俗小説と云えばリアリズム文学に相違ない。すると、普通の意味のリアリズムと探偵小説は相容れないのだという信念を、執拗に持ちつづけている私には、どうにも同意しにくい流派である。(迫真性を出すことは必要だし、「架空のリアル」というようなものは可能だが、普通のリアリズムには徹し得ないという意味)

乱歩がここで云った「普通のリアリズム」とは、新本格系の作家たちが目の仇にしている「自然主義的リアリティ」と、おそらく同じものだろう。乱歩もそうした「普通のリアリズム」は探偵小説にはあり得ないと語る。しかし、「架空のリアル」は可能である、とも。乱歩が述べた「架空のリアリズム」という言葉=概念が、児童文学の世界でもあったというのは、ちょっとした発見だった。「冒険小説の未成熟」を読んでみなくては。

*1:国際子ども図書館のサイトで、いながらにして閲覧できる。なお、児童文学に興味のある人なら常識だろうが、上野にあるこの図書館に足を運ぶと、かなり珍しい資料も、簡単に閲覧できるのだ。利用者が少ないので、資料がすぐに出てくるのが、うれしい。児童向け探偵小説も、基本的なものはけっこうある。