二つの類別


 あいかわらずの「定義」問題について。

 二階堂黎人はミステリーを以下のように定義している。

《ミステリー》とは、《謎》の存在する小説の総称で、主として、《推理型の小説》と《捜査型の小説》を合わせたものである。

 「謎」というのは、ほとんどあらゆる物語、小説にある。恋する二人はこの先どうなるのだろう、というのも「謎」だし、わたしは何者なのか、というのも「謎」である。だから、ここは「犯罪に関する謎」としないと適切ではないと思うが、それはまあ、いい。今は、枝葉末節の言葉尻を捉えたり、揚げ足取りをしたいわけではないから。

 ここで考えてみたいのは、ミステリーを「推理型の小説」と「捜査型の小説」にわけている点だ。


 二階堂の説明では、以下のようになっている。

《推理型の小説》とは、ミステリーのうち、謎を推理という思索的行為によって解決する物語である。《探偵小説》や《推理小説》や《本格ミステリー》がこれに該当する。

《捜査型の小説》とは、ミステリーのうち、謎を捜査という体験的行動によって解決する物語である。《私立探偵小説》や《警察小説》や《犯罪小説》などがこれに該当する。

(中略)

 最大の違いは、謎の探求の仕方です。《推理型の小説》の場合には、文字どおり探偵もしくはその他の人物の推理によって(頭を使って)謎の解明をみるわけで、推論を組み立てるために、必然的に物語中には、ちりばめられた手がかりや証拠が必要となります。推理小説の物語中には、よく「読者への挑戦」が挿入されますが、それは手がかりを過不足なく、公平に読者へも分け与えたという、作者からの明確な意志表示なのです。

 しかし、《捜査型の小説》の場合には、必ずしも手がかりは必要としません。物語の推移や探偵の行動によって(ようするに、相手をぶん殴って白状させるとか)、順次、結論や結末にたどりつけば良いのです。謎の解決は、たいていの場合、小説の最後に作者から一方的に提示されることになります。

 しかし、二階堂という人は、説明が下手である。説明すればするほど、物事を混乱させる。

 もちろん、「捜査型の小説」だって、手がかりが必要に決まっている。捜査とは、手がかりを手に入れる過程にほかならない。もしかりに「相手をぶん殴って白状させる」としても、それは「ぶん殴って」手がかりを手に入れているだけの話だろう。そんな「私立探偵小説」や「警察小説」を僕はほとんど読んだことはないけど(笑)。また、「捜査型の小説」の例にはサブ・ジャンルをあげているのに対し、「推理型の小説」の例としてあげた「探偵小説」や「推理小説」は(この場合でいうなら)たんに言葉の言い換えにすぎない(よーするに「本格」だけを別にしているわけだ)。「犯罪小説」に何を想定したのか不明だが、これを「捜査型の小説」とするのも、誤解をまねくばかりだろう。

 まあ、いい。今は、枝葉末節の言葉尻を捉えたり、揚げ足取りをせずに、先にすすもう。

 ようするに、ミステリー(むかしの言い方なら「探偵小説」)には二つのタイプがあり、それは、謎を思索によって解決するものと、行動によって解決するもの、である。そして、二階堂説では、前者のみを「本格探偵小説」(=「本格推理小説」=「本格ミステリー」)と呼んでいる。

 この二つのタイプの違いは、江戸川乱歩が「探偵小説の定義と類別」で提示した「ゲーム派探偵小説」と「非ゲーム派探偵小説」、または「トリック型」と「プロット型」という類別と、おおむね一致するように思われる。(この他に乱歩は「倒叙探偵小説」を設けているが、ここでは省略)

  • ゲーム派探偵小説  …… 読者と謎解き合戦が出来る(ように思わせている)作品。ポー、ドイル、フリーマン、クリスティーヴァン・ダイン、クイーン、カーなど。
  • 非ゲーム派探偵小説 …… ゲーム派以外。J・S・フレッチャー、クロフツチェスタトン、ポースト、H・C・ベイリーなど。
  • トリック型  …… ポー、チェスタトン
  • プロット型  …… ディケンス、W・コリンズ、A・K・グリーン、ドイル


 かならずしも「ゲーム派」イコール「トリック型」ではないし、「非ゲーム派探偵小説」イコール「プロット型」ではないが、おそらく二階堂のイメージでは、前者を「推理型」、後者を「捜査型」としていると思われる。

 ミステリー=探偵小説を「推理型の物語」と「捜査型の物語」と類別するのは、あながち的外れではない、と僕は思っている。現在ではほとんどのミステリーが「推理」と「捜査」が不可分に結びついて、これを明確に分けることは不可能であるが、しかし、捜査物語の流れ、というのは、ディケンズガボリオ、ウィルキー・コリンズからクロフツを経て、戦後の警察小説まで続くひとつの流れとしてあったと思う。多くの私立探偵小説も、鮎川哲也松本清張も、この捜査物語の流れでとらえることも可能だろう。探偵小説の発展史で重要な流れであり、だからこそ、これを「本格」からはずすことは、あまりにも無謀な試みとなってしまう。

 ところで、いま読みかけの石原千秋『大学受験のための小説講義』に「物語」と「小説」の違いについて説明した箇所があった。文学部の方には常識だろうが、あえてここで書くと、次のようになる。

 石原は「物語」=ストーリー、「小説」=プロットとして、

  • 物語=ストーリー  …… 時間順序で配列された諸事件の叙述。「それからどうした?」が読者の興味の中心となる。先を急ぐ旅。
  • 小説=プロット   …… 因果関係による諸事件の叙述。「なぜか?」が読者の興味の中心となる。寄り道の旅。

 もちろん、ひとつのテクストは、物語としても小説としても読むことは可能である。その上で、石原はこういう。

 ところで、一つのテクストが物語にも小説にも読めるのなら、テクストそれ自体には物語と小説の違いはないのではないかという疑問も、当然でてきそうだ。ここが、先に十分説明しきれないと言ったところなのだが、こういう疑問に対しては、その通りだともそうではないとも言えるのだ。

 仮に、そうではないという立場に立ってみよう。そうすれば、テクストにも、主に〈それからどうした?〉という問いを満足させるために書かれたもの(すなわち物語)と、主に〈なぜか?〉という問いを満足させるために書かれたもの(すなわち小説)とがある、と言っておかなければならないことになる。物語は「速度」に身を任せ、小説は「速度」に抗う。

 この類別からすると、娯楽小説のうちでも、いわゆる「ジェットローラー・ノヴェル」と言われるものは「物語」であり、探偵小説は「小説」ということになるのだろうか。多くの探偵小説においては、〈それからどうした?〉よりも〈なぜか?〉が問題になっている。これは、最初期の探偵小説を書いたコリンズが「プロットを重視した作家」と言われていることでも確かだろう。

 いや。いやいや。そう単純でもないのだろうか。