『大学受験のための小説講義』石原千秋


とりあえず、メモだけ。

小説は実は形のない、得体の知れないものであって、僕たち読者はそれを「物語」に変形させて「小説を読んだ」気になっているのである。(中略)
「小説にはいくつもの可能性がびっしり詰まっているが、読者がそこから好みの物語を引き出すのが、読書と言うものだ」というイメージでもいいかもしれない。つまり、読書とはさまざまな可能性を孕んだ小説からたった一つの物語を選ぶような、主体的な創造行為なのである。
(中略)
 物語とは「はじめ」と「終わり」とによって区切られた出来事のことであって、「はじめ」から「終わり」に進むにつれて、主人公がある状態から別の状態に移動したり(これは「〜をする物語」と要約できる)、ある状態から別の状態に変化したりする(これは「〜になる物語」と要約できる)のである。

 ここでいう「小説」と「物語」は、昨日の「ストーリー」=「物語」と「プロット」=「小説」とは違った使い方をしている。が全く関係ないわけではない。


しかし、『大学受験のための小説講義』といいながら、最後の結論が

 しかし、これらの設問(国立大学二次試験の問題)は、とりあえずこの奇妙な表現たちを、わかりやすくて安全な散文に「翻訳」することを求めているだけだ。そこには、危険な愛情もメタファーの面白さもない。だから、それは小説を読むことからはずいぶん遠く離れた仕事だと言える。ほんとうは、こういう設問には試合放棄するのが、『春は馬車に乗って』という小説に対する礼儀というものなのだろう。

 そう、僕たちには小説は読めないのだった、奇蹟を起さない限り。

 というのは、掟破りである。