『シャーロック・ホームズの世紀末』

シャーロック・ホームズの世紀末

シャーロック・ホームズの世紀末


まだ4割ほど。でも面白い。

シャーロッキアン本と思っていたが、そうではなかった。

なにせ著者のシャーロッキアンへの感想は、

本来ユーモアの精神に満ちた楽しみであるはずのものが、いかに醜悪なエセ学問に辿りついてしまうことがあるか、ウイリアム・ベアリング=グールド編『注釈シャーロック・ホームズ』二巻本がその典型的な見本であろう。

てなものである。

じつは僕も、著者とは違った意味でベアリング=グールドのホームズ本は言語道断と思っている。『四つの署名』よりも「ボヘミアの醜聞」が先に起こったなどという説の本を、どうしてまともに相手にできようか。

で、この本は『シャーロック・ホームズの世紀末』というよりも『コナン・ドイルの世紀末』としたほうが適切と思えるような内容で、コナン・ドイルの生涯をたどりながら、世紀末イギリスの全体像を浮かび上がらせようとしている。ホームズ譚に書いてあることよりも、そこに書かれなかったことへの考察が多い。

例えば、コナン・ドイルにとってロンドンは異邦の街だった、というくだり。

周知の通り、ホームズ物語には、世紀末のロンドンの地図を手にして楽しめる部分がかなりある。ということは、つまり、子供の頃からロンドンを肌で知っていたわけではない作者コナン・ドイルの頭の中にあったこの大都会は、すでにかなりの程度で抽象化され地図化されたものではなかったかということである。(中略)ロンドンの不動産屋の息子として育ったG・K・チェスタトンが『奇商クラブ』で提示する土地勘と比較してみると、その印象はさらに強まる。(中略)ホームズのロンドン像は霧とガス燈の中に沈んでいるのではなくて、人工の地図的な世界としてその中からくっきりと浮かび上がってくるのである。そして、その分だけ、世紀末のロンドンの明瞭すぎる案内記となってしまうのである。ホームズ物語はその歪みに対してしかるべき注意を払うことによってのみ、世紀末文化の有効な記号としてその力を発揮することになる。(p12-13)

また別のところでは、

シャーロック・ホームズのロンドン』といった類の本や写真集がいくつも作られたりするのだが、そうした足跡追跡をいくら重ねてみたところで、〈ホームズの世界〉が浮上してくるはずがない。(p184)

英文学にも英国史にも疎い僕がどこまでこの本を理解できるのか心もとないが、なんかすごく賢くなった気にさせてくれる。