横山秀夫と日常の謎


横山秀夫が書く小説は、一般には警察小説と思われている。それは、もちろん間違いではない。警察組織の中の一員であるがゆえの苦悩であったり、警察機構そのものの問題点であったり、作品のテーマに警察という組織が取り上げられることが多いからだ。しかし、それ以上に、横山秀夫の書く小説は、じつは本格推理小説なのである、ということを述べてみたい。


ところで、北村薫の連作短篇集『空飛ぶ馬』(1989)は画期的な作品であった。これまでの推理小説が主に犯罪にかかわる謎を扱っていたのにたいし、この作品は犯罪に直接かかわらない日常生活のなかでおこる不可解な謎を提示し、それを論理的に解決する過程を描いたのである。魅力的な謎が意外性を伴って解かれれば、その謎が犯罪に関係なくても見事な本格推理小説なるのだということを、北村は実作によって示したのだった。これまでにも、犯罪を扱わない推理小説がないわけではなかったが、意識的にそうした手法を用いたことで、この作品から「日常の謎」派と呼ばれる一連の流れが始まったことは間違いないだろう。

それ以来、さまざまな職業の名探偵たちが、彼らの生活の中でおこる「日常の謎」に挑んだ。書店員や落語家や学生や作家、占い師や球団オーナーや助産婦まで、その職業はバラエティーに富んでいる。

横山秀夫を語るのに「日常の謎」派を持ち出したのは、ほかでもない。横山の処女短篇集『陰の季節』(1998)は、じつは「日常の謎」派の流れの作品だからなのだ。この短篇集で描かれるのは、警察官を職業とした人びとの「日常の謎」なのである。

『陰の季節』の各短篇は、最初に魅力的な謎が提示される。それらは直接犯罪と関りのある謎ではないが、しかし『空飛ぶ馬』がそうであったように、推理小説の謎として魅力的な謎である。例えば、表題作「陰の季節」では、刑事部の王道をたどった男が、なぜ花道の天下りポストを拒否するのか、というのがメインの謎となる。警察という官僚機構の中で、このような完璧な人事異動を拒否することは、本来あり得ない。ではなぜ、この刑事部署のエリートはそれを拒否するのか。モダーン・ディテクディヴ・ストーリイはなぜではじまる、と言ったのは都筑道夫だが、まさにそのような不合理で不可解な謎といえる。しかし「陰の季節」のこの謎は、論理的に解決されるものの、実をいうと意外性にはいまひとつ乏しい。この作品集の中の一番の傑作は、「黒い線」である。なぜ手柄をたてた婦警は、翌日、急に無断欠勤したのか、という謎もすばらしいが、あるひとつのことに気がつくとさまざまな謎がすべて納得がいくという解決は、短篇本格推理小説のお手本といっていいような出来だ。

この作品集に収められた連作短篇は、例えば大企業を舞台にしても、書くことは可能だろう。エリート重役が突然、栄転を拒否をする。仕事を認められたOLが急に出社拒否をする。こうした「日常の謎」ものは、いかにもありそうである。横山は、しかし、警察官たちを主人公にした。

横山の着眼点が見事なのは、警察官を主人公としながら、犯罪捜査をテーマとするのではなく、かれらの日常に起きる謎を扱った点である。それは新しいスタイルの警察小説であったが、さらに究極の「日常の謎」派でもあった。なぜなら、警察官にとっては、犯罪に関ることが日常であるからだ。彼らの「日常の謎」は、なんらかの形で犯罪に関っていかざるを得ない。「日常の謎」でありながら、なおかつ犯罪に関する謎にもなる。犯罪を扱わないことで、新たな流れを見出した「日常の謎」派であるが、ここでさらに「主として犯罪に関する日常の謎」とでもいうべきものが登場したのである。

日常の謎」派を本格推理小説とするならば、それ以上に、横山秀夫の一連の作品は本格推理小説であるといえよう。

『動機』(2000)『顔』(2002)とほぼ同じタイプの作品を書いてきた横山だが、『第三の時効』(2003)において、ついに警察官の犯罪捜査を描く。これは、「三人の名探偵のための事件」と副題を入れたいほど、真正面から本格推理小説に挑んだ作品であった。