血は異ならず

もう一回だけ、おじさんの繰言を。

市川尚吾の「本格ミステリの軒下で」の中に次のような文章がある。

 新本格ムーブメント以前のジャンル認識において、いわゆる「叙述トリック」型の作品に象徴されるような「意外性」を主眼にした作品は(中略)「本格」ではなく、別のジャンルにくくるという共通認識が、存在していたように思う。
(中略)
(『十角館の殺人』は)典型的な「叙述トリック」型の構造を持つ作品である。しかし多くの読者が同作を「本格ミステリ」と認識し分類した。そこでジャンルの「くくり」は明らかに変容したのである。


この市川の認識と指摘は正しいと思う。ぼくなどのように古くからのミステリ・ファンは、「意外性」だけでは本格ミステリだとは思わなかった。しかし、現在の本格ミステリ・ファンたちがもっとも「本格らしい」と実感するのは、意外性のある物語(あるいは書き方、叙述の仕方)のように見受けられる。論理的な謎解きよりも、意外性を上位に置いているようだ。もちろん、すべての人がそうではないだろうけど、三十代以下の「本格ミステリが好き」だという人と話をすると、そのような印象を受ける。

ぼくには、それはジャンル認識の勘違いと思えるのだが(意外性だけならディテクテブ・ストーリイじゃなくて、スリラーかショッカーになってしまう)、いまさら、そんなことを言っても始まらない。ジャンル認識が変容したのだ、というしかないだろう。それは、欧米の黄金時代の本格探偵小説(とくにアメリカ型パズル・ストーリイ)の中心的作風でもなく、また戦後の我が国の本格探偵小説の中心的作風でもない。また、ミステリという枠組からもはみ出すような、新たなジャンルであろう。

さらに、「コテコテの本格ミステリ」として、市川は「因習に満ちた土地柄、呪われた一族の住む館、密室殺人、童謡に見立てた殺人、等々の反リアルな要素を含むミステリ」と注釈を入れている。この言い方にはいく分かの冗談も混じっていようが、しかし、現在の多くの「本格ミステリが好き」な人たちがそのようなイメージを持っているからこそ、こうしたな文章がでてくるのだろう。こうした作風は、黄金時代のアメリカや、戦後の我が国の一部には、たしかにあったといえる。それにしたって、それが「反リアルな要素」であるかどうかは、大いに検討を要するが。ただ、イギリスではほとんど見られなかったし、また1940年代以降のアメリカでも、作例はほんのわずかである。それを、「コテコテ」と認識するようになったのは、どうしてなのだろうか。

もうひとつ、市川の論文で興味深かったのは、市川が道尾秀介の叙述の仕方に違和感を覚えていることだった。ぼくには道尾の手法は、「こういうのが本格ミステリの書き方だよなあ」とすんなりと納得のいくものだった(まだわずかしか読んでいないで、えらそうなことは言えないのだが)。市川の世代とは認識が一巡して、またもとに戻りかけているのだろうか。もちろん、過去に戻るのではなく、螺旋的に一段上位に上がった、ということなのだろうけど。

それと、「本格ミステリ」について語る人々は、今現在の欧米のミステリについて、ほとんど視野に入ってないかのように見受けられる(ジャンルの本質論になると、まず、現在の海外作品は出てこない)。彼らの「本格観」には、現在の欧米のミステリ・シーンはどう映っているのだろう。「ホンカク」という概念は日本にしかない独自のもので、海外は関係ない、と思っているのか、それとも、海外では「本格ミステリ」はすでに滅んだジャンルで、考察に価しないと思っているのか。こうしたことを言うのは、「探偵小説」という文芸ジャンルはあきらかに海外から輸入され、ある時期までは海外作品に影響されて発達してきたからである。欧米の真似をしろ、とは言わないが、無関係とは言えないと思う。

いつの間にか、同じ「本格ミステリ」という言葉が違う内容を示すようになってしまったのである。だから、「ファンの数だけ本格ミステリの定義がある」というような言説がまかり通るのである。本当にそうなら、それはもう、同じ文芸ジャンルではないだろ、としかいいようがない。一人一ジャンル、お互いなんのコンセンサスも得られないままに、個人がかってなジャンル実感を語っているしかなくなる。

悩んだ時には、言葉の発生地点までもどる、というのが「原理主義者」の原理主義者たる所以である。「本格」という言葉が何を指しているのかに迷ったら、甲賀三郎にまでもどれ、というのが、前回のぼくの主張である。今現在の本格ミステリの実感を各人が言い合っても、混乱が増すばかりだ。

戦前、「探偵小説」という言葉には、ディテクティヴ・ストーリイだけでなく、それに関連する(と当時の日本人に感じられた)さまざまなタイプの小説が含まれた。それはひとつにはジャンル意識が低かったせいもあるが、それだけではない。多くの人たちがそれらの小説の中になんらかの共通因子を見出して、「探偵小説」に含めたのである。海野十三はそれを「探偵趣味の這入っている小説が即ち探偵小説である」とした。もちろん、ジャンル定義としてはあまりに曖昧で、甲賀に反論されたのも仕方がない。しかし、「探偵趣味」という共通の因子が見出せたことも、また確かであった。

現在「本格ミステリ」という言葉からイメージされる小説群には、やはりなんらかの共通項があるのだろう。それは、ミステリという枠組から、ハードボイルドや警察小説やリアルな推理小説や社会派推理小説を除いた何物かなのだろうか。それとも、犯罪文学、推理小説、ミステリなどという概念よりも、もっとひろい何物かを指し示しているのだろうか。甲賀が「広義の探偵小説」からディテクテヴ・ストーリイを弁別するために用いた「本格探偵小説」ではなく、もっと広く「探偵趣味」と呼ばれるものをも含んでいるのだろうか。

果てしなき旅路を経て、なお、血は異ならないのか。行く末を見つめ続けていたい。