六つのナポレオン(その1)

「第一に話したいのは、なんといっても、「六つのナポレオン」だね」
「すてき! 第一話「六つのナポレオン」。ナポレオンが六つの幼年の時の話?」(p15-16)


と、まるで夫婦漫才のようなやりとりをしているのは、言わずとしれた、ワトソン博士と妻のメアリー。山中ホームズの短篇第1話は、こうして「六つのナポレオン」からはじまる。収録されているのは、ポプラ社版《名探偵ホームズ》8巻『まだらの紐』である。

これまで『深夜の謎』(『緋色の研究』)、『恐怖の谷』、『怪盗の宝』(『四つの署名』)と長篇が三作続いたが、この本からしばらくは、一冊に三篇収録を基本とした短篇のシリーズとなる。

ところで、山中峯太郎のホームズ・シリーズは、各篇の終わりに次話の予告がつくのが特徴であることは、よく知られている。巻をまたぐ場合にも、次巻の予告として、次の話のサワリが告げられ、効果をあげていた。これまでも、『深夜の謎』の最後では「またも奇怪な怪事件」が飛び込んでくるし、『恐怖の谷』では、「はるかに遠いアジア大陸から」の事件が告げられる。ところが、『怪盗の宝』のラストでは、ワトソンとメアリー・モースタン嬢の結婚が告げられるだけで、新たな事件が飛び込んではこない。これは、どうしたわけだろう。

もちろん、ここで事件が起ってしまうと、ワトソンが結婚式をあげ、医院を開業する暇もないことになるから、というのも一因かもしれないが、理由はそれだけだろうか。

じつは、最初にこのシリーズが刊行された《世界名作探偵文庫》のリストを確認すると、ひとつの推測ができる。山中ホームズの最初の三冊は、《世界名作探偵文庫》の1巻〜3巻にあたり、1954年4月から毎月1冊、刊行されている。ホームズ・シリーズの4冊目である『まだらの紐』は同叢書の7巻にあたり、発行は1954年11月だ。そして、山中峯太郎はこの間に、この叢書でサックス・ローマー作『魔人博士』とオルツイ作『灰色の怪人』の二冊を担当しているのである。これは、もちろんホームズものではない。

つまり、山中ホームズ・シリーズは最初の3冊で、いったん区切りがついたのである。もしかしたら、最初の執筆予定は、この3冊だけだったのかもしれない。そして、『まだらの紐』から新たなシリーズとして再出発しているのだ。だから、『怪盗の宝』には予告がなかったのである。

試みに、『まだらの紐』以降を見てみよう。引き続き『スパイ王者』『銀星号事件』と、毎月1冊、3冊のホームズものを刊行したところで、次の1955年6月の『謎屋敷の怪』まで半年あいて、その間にサックス・ローマー作の『変装アラビア王』を担当。そして、やっぱり『銀星号事件』にも、次号予告はないのである。この時は、ワトソンの身辺に変化があったわけでもない。

こうしてみると、最初の長篇三部作が第一シリーズ、そして『まだらの紐』『スパイ王者』『銀星号事件』までを第二シリーズとしてもいいのかもしれない。そして、ドイルのホームズ譚がストランド誌に連載された短篇シリーズからその本領を発揮したように、山中ホームズも、この第二シリーズの短篇連作から、独自の魅力を発揮しはじめる。それが、「六つのナポレオン」の冒頭で語られる、「ワトソンのホームズ譚執筆拒否と、妻メアリーの代筆」という枠組設定である。

「よし、そんなことを言うなら、ホームズの探偵記録など、ぜったいに書かないぞ。書くもんか!」
 ぼくは愛妻に、だんぜん、そう言いきったのです。(p13-14)

そんなこと、というのは、開業そうそう、大流行のワトソン医院に、妻のメアリーから「あなた、ホームズ先生の記録を書いて、自分を宣伝なさったの? ずいぶん、ぬけめのない方ねえ!」と、あらぬ疑いをかけられたことだ。しかし、読者からは「毎日、はがきや手紙で、さかんに」ホームズ物語の新作を催促される。

これは、後年ホームズものの執筆に乗り気でなかったドイルと、なんとか書いて欲しいファンや出版社との関係を思うと、なかなか含蓄のあるエピソードともいえよう。現実のドイルは、出版社からの高額の原稿料の提示や、ファンからのヤイノヤイノの催促に、しぶしぶ書くことになるのだが、山中ワトソンは、「夜に、少しでもお書きになったら?」という妻の助言にも、「書かないと言ったら、ぜったい書くもんか!」と、あくまでも頑固である。そこで、賢妻のメアリーは一計を案じる。夜のつれづれに、ワトソンがホームズの活躍をメアリーに語り、メアリーがそれを代筆していくというのである。

原作では、ワトソンの妻は、結婚後はほとんど姿をあらわさない。ホームズの活躍をワトソンが語る、というスタイルを取るかぎり、短篇ではなかなか妻まで絡ませにくいためだろう。例外は「ボスコム谷の惨劇」と「唇のねじれた男」くらいか。しかし、山中版のように、メアリー執筆のスタイルをとれば、物語の枠の外で、常に「ワトソンの妻」の存在をアピールできる。これは、うまい方法だ。で、冒頭に紹介した、「六つのナポレオン」についての、メアリーの天然ボケとあいなる。はたして、メアリーの筆力や如何に。