ポーにいたる道(2)


■■ポーにいたる道(2)/ゴシック・ロマンスについて


 ジュリアン・シモンズは『ブラッディ・マーダー』の中で、ポーについてこう言っている。

 彼が生涯追いつづけたのは芸術の女神――その真の名は“センセーション”にほかならなかったのだ。(p58)

 ポーの作品には、知性で謎を解く物語=パズル的な物語と、センセーショナル(扇情的)な物語が同時に存在している。ポーにおけるセンセーショナルな要素は、ゴシック・ロマンス*1からの流れとしてとらえることができる。


 ゴシック・ロマンスとは、1764年に発表されたホレス・ウォルポールの『オトラント城奇譚』からはじまる小説スタイルで、18世紀末から19世紀初頭にかけて主にイギリスで流行した。代表的な作品としては、以下のようなものが挙げられる。

 マチューリンまで、小説作品だけで百数十編があるという。

 もともと「ゴシック」とは、ノートルダムの大聖堂やランス大聖堂などに代表される12世紀初頭から14世紀に流行した建築スタイルである。これを18世紀になって、「暗黒の中世」への回顧的ロマンティシズムから「趣味」として取り入れたのがホレス・ウォルポールで、彼は自分の屋敷をこういう「ゴシック趣味」で飾り立てて客たちに見せびらかしていたらしい。いわば、中世建築の廃墟への賛美であり、暗くおどろおどろしいが、一方でロマンティシズムをかきたてるイメージが、当時の貴族たちの一部ではやったのである。

 前回にふれたヴォルテールなどに代表される啓蒙思想が広まっていく十八世紀に、一方でこういう回顧的・退廃的な趣味が流行するというのは、光に対する闇ということで、わかりやすいといえばわかりやすい。

 紀田順一郎は『出口なき迷宮』(1975) に所収の「ゴシック・ロマンスとは何か」で、古典的ゴシック小説の定型を次のようにまとめている。

   1.城への"招待"
     内部に衝撃をはらんだ空間がすでに存在している。その内部へ読者は招待されていく。
   2.予言、凶兆または危機
   3.デモンの顕現
     甲冑その他の中世的小道具の形をとったり、「内なる悪魔」の形をとったり、あるいは幾多の登場人物の織りなす
     運命の綾そのものであったりする。
   4.出口なき迷路
     地下の回廊や牢獄が、突如予期しない場所にあらわれ、運命またはデモンに追われる主人公を悩ます。
     天の許しへの絶望。運命には逆らえぬという認識だけが、迷路の到達点にある。
   5.城の崩壊
     ゴシックの城は崩壊を前提として構築されている。



 貴族の趣味としてはじまったゴシック小説を一般に普及させたのがアン・ラドクリフ夫人である。彼女は『ユドルフォーの秘密』で、遠くで聞こえる足音、ギイと軋む扉、出所の不明な苦悶の声、不思議な音楽のしらべなどのサスペンス要素を盛り込む。また、「一見超自然的恐怖に満たされていながら、結末で、これを全て人工的なトリックとして解き明かしてしまう形式を取」(荒俣宏)り、これが今につながる「ゴシック・サスペンス」の元祖となったといえよう。これらの小説は、現代の貸本屋にあたる〈巡廻文庫〉が車に乗せて貸して廻っていたようで、大きな屋敷の令嬢や小間使いが、ヘンリー・フィールディングやリチャードソンと区別しないで読んでいたらしい。

 このように、ゴシック・ロマンスは、亡霊のいる古城、地下窟、墓地、土牢、殺人、強姦、妖魔の棲む森、などなどの舞台装置で、たっぷりと扇情的な効果を読者にあたえてくれる。怪奇幻想がつきものとされ、事実、そういう作品が多いのであるが、それだけではないようだ。由良君美は「伝奇と狂気」(《季刊芸術》1969年秋号/『椿説泰西浪曼派文学談義』所収)の中で、ゴシック・ロマンスを「恐怖派伝奇小説」という言い方で、次のように説明する。

いったい、今日の推理小説の祖型のひとつは、ここに述べてきた恐怖派伝奇小説なのであって、今日の推理小説に〈社会派〉と〈ロマネスク派〉とが分けられるとすれば、その分裂はすでに、この頃の祖型のなかに胚胎していたといってよい。〈社会派〉の求める恐怖は、時代や社会のなかに潜む〈からくり〉の怖ろしさであり、〈ロマネスク派〉の与える恐怖は、〈伝奇〉に傾斜した想像力の空間のなかで綺想がえぐりだす人間性の深層の恐怖の図であるといえよう。いずれも、想像力の奔放な高翔が伴わなければならないが、〈社会派〉の場合は、巧妙に隠された社会悪を透徹した知性の推理で解剖してゆく面白さを狙うのであるが、〈ロマネスク派〉は、そのような事件の絵解きよりも、むしろ、非現実の空想の空間に無限連想のあやかしの糸を織りなしながら、事件の連鎖の積み重ねのうちに、一抹の推理味をかもしだすものといってよかろう。

 恐怖派伝奇小説は、概して〈ロマネスク派〉に傾くものが多かったが、それでも、〈社会派〉の水脈は強く貫き通っており、とりわけ『ケイレブ・ウィリアムズ』はその代表作といったらよいであろう。(中略)〈社会派〉も〈ロマネスク派〉も、ともに恐怖派伝奇小説であって、一方の社会とリアリズム、他方の歴史と想像力という基調の差はあるにしても、なお、推理のための推理に堕する当今の推理小説の一部のものとはことなって、いずれかに基調はもちながらも、なお双方の世界に相渉る健康な面をどちらももっていた(後略)

 そして、『ケイレブ・ウィリアムズ』について、「鋭い推理をもつ逃亡者の眼差し。美徳のかげの醜悪の暴露。綿密な構成。そしてなによりも、イギリス小説には珍しい、ウィットの欠如。これらの特徴からいって、このイギリス恐怖小説社会派の鼻祖は、わが松本清張に、時として、あまりにも似ている。」と指摘する。

 なるほど、松本清張も「社会の理不尽な恐怖を描いた作家」という見方をすれば、ゴシック・ロマンスの末裔ととらえることも出来るわけだ。*2

 たしかに『ケイレブ・ウィリアムズ』を読むと、そこには恐怖はあっても、怪奇はない。主人公にふりかかる恐怖は現実的な犯罪や社会体制の歪み、そして人間心理の複雑さからきている。社会の闇と心の闇をあつかっているわけで、その闇のひとつは、主人公ケイレブがおさえることのできない好奇心である。この好奇心から「探偵行為」、つまり使用人であるケイレブが自分がつかえる主人フォークランド氏の秘密をさぐりはじめ、ついには彼が殺人犯だとつきとめてしまうのである。真犯人が誰かにかかわらず、主人の秘密をさぐる、という行為そのものがイギリス人にとっては嫌悪以外のなにものでもないようで、このため親しかった人々に石もて追われ、さらにフォークランドの策略もあって、罪なき身を牢獄に捕らわれてしまう。こうしてケイレブの流浪がはじまり、脱獄、盗賊団への加入、変装しての旅が続く。やっと心優しい一家でやすらぎの日々を得たと思っても、すぐに過去の罪をあばかれ、またも流浪することになる。

 この作品でケイレブを執拗に追いかけるのが、フォークランドに頼まれたジャイルズという男である。

「ジャインズはこの数年間、法律を犯すこと、法律の執行の手先として働くこと、このふたつの職業の間を行ったり来りしていた。もともとは前者の仕事をしていたのだが、盗賊商売の秘訣を知ると、今度は盗賊を捕える方の専門家、つまり探偵になった。なりたくてそうなったのではなく、ならざるを得なかったのである。(中略)探偵業という立派な仲間ではできることなら同業者の摘発を避けるというのが決まりである。(中略)悪事を働いていた頃の共犯者をギリギリまで保護し、よほどのことがない限り手をつけないことである。(p195/岡照男訳/国書刊行会)」

 当時はまだディテクティヴという言葉はない。したがってジャインズは刑事ではなく、賞金目当てに盗賊をつかまえる「賊捕り屋」という存在だったようだ。盗賊をしつつ探偵もするジャインズの設定は、フランスのヴィドックを思い起こさせるが、実際、この時代のイギリスでもめずらしくはなかったのだろう。つまり、この時代にあっては、泥棒と探偵は同類であり、「探偵行為」は恥ずべきことだったのである。「探偵」が正義の味方になり、「探偵行為」が大衆の支持を得るためには、まだ半世紀が必要だった。


 1820年以降、ゴシック小説の諸要素は枝分かれし、怪奇小説やSFなどのジャンルとしてそれぞれに発展していく。アン・ラドクリフ型のゴシック小説は、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』(1847) 、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』(1847) などにも影響を与えつつ、ミステリ分野ではHIBK派(もし知ってさえいたら派)の流れにつながっていく。また、怪奇的な要素は、ドイルの「まだらの紐」『バスカヴィル家の犬』などにも取り入れられ、ディクスン・カーを経て、その支流は日本の「新本格」の一部にまで流れ込んでいる。

 ところで、ウィリアム・ゴドウィンは『ケイレブ・ウィリアムズ』の執筆に際して、『ニューゲイト・カレンダー』から多く題材をとったと述べている。
『ニューゲイト・カレンダー』というのは、ニューゲイト監獄に収監された囚人たちの行状やら処刑の模様などをまとめた実録読み物である。

 そう、センセーショナルな物語には、ゴシック・ロマンスのほかに、もうひとつ別な流れがあった。それは犯罪実話の流れである。

*1:「ゴシック・ロマン」という言い方は間違いらしい。ロマンは小説のこと、ロマンスは伝奇小説のこと。だから、ただしくは、ゴシック・ロマンス。

*2:最近では巽昌章が『論理の蜘蛛の巣の中で』のあとがきで、「清張は、探偵小説の非現実的なせンセーショナリズムを批判して、探偵小説をお化け屋敷の掛小屋から連れ出そうといったが、清張作品にあらわれた日本の姿は、それ自体、狂気、異様な偶然、歪んだ欲望、甦る過去の因縁といったパーツが近代的な合理主義志向と融合してできた、巨大な白昼のお化け屋敷めいている。」という興味深い指摘をしている。