ミステリの分類(4)/二つの類別・その1――理知と扇情


 探偵小説とは、「探偵が登場する物語」もしくは「探偵が謎を解く物語」である、というのが、前回の結論だった。今回からしばらく、この探偵小説を二つに分類する基準を考察することにする。さまざまな二分法を検討していく中で、探偵小説の全体像が明らかになってくるはずだ。


 ところで、探偵小説(Detective Story/Novel)の隣接ジャンルにスリラー(Thriller)と呼ばれるものがある。スリラーと探偵小説に、はっきりした違いがあるのだろうか。あるとしたら、どこがどう違うのだろうか。まず、A・E・マーチの『推理小説の歴史』(1958)*1から、この両者の相違を説明をした部分を引用してみよう。

 ここで〈スリラー〉と〈推理小説〉の違いについて少し考察しておきたい。この二つの言葉は時として無差別に使われるけれども、両者の間に一定の境界線を見つけ、はっきりさせておくことはのぞましいであろう。(中略)この一見似通った二つの小説の間の主要は相違は、一部分主題そのものにもあるけれども、特にその主題の提出のしかたと、中心人物の精神力および肉体力に与えられる相対的重要性にあることは、明らかである。具体的にいえば、スリラーは常に劇的な犯罪を取り扱うが、推理小説は、時に劇的犯罪を取り扱うことはあっても、二者択一的には他の原因から発生するもっと地味な形の犯罪を取り扱うのが普通である。スリラーは主として読者の感情に訴えるが、推理小説は読者の詮索心と論理的能力に訴えるのを第一とし、不安や感嘆のような感情には二次的にしか訴えない。したがって、スリラーの主人公は例外なく精力的な行動によって目的を達するが、推理小説の主人公は考えることにより、つまりその知力を問題に集注することによって――時には椅子から立ち上がりもせずに――事件を解決する。しかし、そうはいっても、ある程度の重複はさけられるものでないから、大ていの探偵は、精神力と同時に肉体力をも要求されるある期間をもつ。例えば、極端に肉体力の行使をきらうレジナルド・フォーチュンやネロ・ウルフのような探偵でさえ、時には思索だけでなく行動をも起さざるを得なくなることがあるが、しかし最終的に問題を解決するのはあくまで彼らの思考力であって、行動力ではないのである。

 引用した村上啓夫の訳文では「推理小説」となっているが、この本の原題が The Development of the Detective Novel であることから類推すると、原文は Detective Novel だと思われる。したがってこれは、探偵小説とスリラーの違いについて考察した文章である。

 マーチは探偵小説とスリラーは「一見似通った二つの小説」であり、「時として無差別に使われ」ることを前提として、その相違を次のようにまとめた。

  • 探偵小説 …… 比較的地味な形の犯罪を扱い、探偵が知力により事件を解決する小説で、読者の知的好奇心に訴える。
  • スリラー …… 常に劇的な犯罪を扱い、探偵が行動により事件を解決する小説で、読者の扇情的好奇心に訴える。

 この文章が出てくるのは、ニック・カーターをはじめとする、19世紀末のアメリカのダイム・ノヴェルに登場する探偵たちを考察した箇所だ。そのニック・カーターものについて、マーチは次のように論じている。

探偵役を演ずる彼(ニック・カーター/引用者注)は、しばしばタバレ老人やルコック探偵と同じ推理方法を用い、犯行現場をざっと調べただけで容疑者の人相風態を推定したり、一本のあやしいげな髪の毛を発見したり、死体の指の爪の間に明らかに犯人のものとみなされる物質の細片を見つけたりしてみせる。また、ルコックは変装の名人で、ほどんどいつも変装していたため、彼の本当の見たものは警視庁の同僚中にも二、三人しかいなかったほどだが、ニック・カーターがまた変装にかけては驚くほどの達人で、物語に出てくるどんな人物にも(時には女にさえ)化けることができるのである。(中略)ある点で、ニック・カーターは、ルコックよりもむしろロカンボールの方に似ている。というのは、どっちも信じられむくらいいろいろな外国語に通じている点や、また体力においても精神力においても超人的な存在でありながら、二人ともややもすると自分たちが追っている敵のワナに落ち(ルコックには決してそういうことはなかった)、そのたびに忠実な助手たちの機転であぶないところを救い出される点など、二人は実によく似ているからだ。
 (中略)どの物語も必ずある扇情的な場面で話がはじまり、ときどきほんの少しばかり推理をまじえながら、次から次へと興奮と刺激を追って行く点では、不思議なほど一致を見せている。

 ニック・カーター物語を紹介したこの文を読むと、ルコックものやホームズ譚との違いを明確にイメージすることは難しい。現場に残された犯人の痕跡(手掛り)から犯人像を推定する手法や、探偵が変装の達人であるのは、どちらにも共通している。違いは、スリラーの主人公はあまりに超人すぎるわりに、すぐに悪人の罠にかかって、自ら捕われの身となることだろうか。十九世紀末の探偵小説のジャンル・イメージがルコックとホームズにあったとすれば、ニック・カーターも当時の読者にとっては、間違いなく「探偵小説」だったはずである。その読者は、マーチが「無批判な大衆」としたような読者だけではなく、すでに見たように、「探偵小説を弁護する」を書いたチェスタトンのような読者も含まれている。

 さらに、1930年頃のイギリスの探偵小説の流れを語った章で、次のようにスリラーという言葉は使われている。

推理小説エドガー・ウォーレスによって大量に生み出された扇情的な犯罪スリラーのような狭い枠内に、自分自身をとじこめてしまうのではなかろうか(中略)。ウォーレスの書いた百数十篇の小説の大部分は、一種の推理小説的要素がとり入れられ、それがある程度の役割を演じていることは事実だった。しかし厳密な意味での推理小説は極めて稀で、(中略)数篇をかぞえるにすぎなかったことも事実である。

 マーチ女史がここで「推理小説的要素」(「探偵小説的要素」)といっているのは、ゴシック的な要素や、扇情的な要素、また意外性のある結末ではない。間違いなく「謎解きの要素」をいっている。そして、スリラーにも探偵小説的要素(=謎解きの要素)はあるけれども、それよりも主人公が肉体的な攻撃におののいたり、美女が危機におちいったり、怪しい人物の影がちらついたりする、読者の扇情的好奇心を刺激する要素のほうが多い、といっているのだ。

 ところで、ウィラード・ハンティントン・ライト(S・S・ヴァン・ダイン)はアンソロジー『傑作探偵小説』 The Great Detective Stories(1927)の序文で、「「通俗」小説とか「娯楽」小説とか呼ばれるものには、明確に四つの種類がある」*2として、以下のものを挙げた。

  • ロマンスの小説(若い人の恋愛を描き、普通は結婚式の祭壇か、結婚を予告する抱擁で終わる)
  • 冒険の小説(肉体的な行動や危険が主な題材で、海洋小説、西部の冒険談、アフリカ大陸探険ものなど、さまざまな種類がある)
  • 謎の小説(劇的サスペンスは多くの場合、大詰めになるまで解明されない隠された力によって引き起こされる。外交的密計、国際的陰謀、秘密結社、犯罪、疑似科学もの、幽霊ものなど)
  • 探偵小説

 マーチの説明によるスリラーは、ライトのいう「謎の小説」*3に近いジャンルだと思われる。ライトもまた、マーチと同じように探偵小説の枠外にスリラー(謎の物語)を配置し、探偵小説は「仲間たち――ロマンスの小説、冒険の小説、謎の小説――とは共通するものがほとんどない。」といい、探偵小説の特殊性をアピールしている。ライト(=ヴァン・ダイン)の理想とした探偵小説は、その特殊性を極限まで推し進めたもの、すなわち謎解きに特化し、ほかの要素を極力減らした小説スタイルだから、そう強調したくなる気持ちは、わからないでもない。しかし、すでにマーチが指摘しているように、スリラーにも探偵小説的な要素(謎解き)は少なからず含まれる。また、どんなに探偵小説にも、少量ではあれ、扇情的な要素は必ず入っている。そもそも、犯罪を扱うことが扇情的なのだ。「共通するものがほとんどない」というのは、事実ではなく、ライトの希望的意見と思った方がいいようだ。

 R・オースチン・フリーマンも「探偵小説の技法」(1924)*4のなかで、「極めて扇情的で極端な映画的小説は、(中略)脈絡のない「スリル」のよせ集めであり、」「この手の読み物を「探偵小説」という名称で呼ぶのは間違っている」とした。

 しかし、スリラーと探偵小説を明確に分離するのは、なかなかむずかしい。探偵小説史におけるスリラーの扱いを見ても、それはわかる。例えばスリラーの代表とされるウィリアム・ル・キューやE・フィリップズ・オプンハイムのスパイ小説、エドガー・ウォーレスやH・C・マクニール(サッパー)の活劇小説は、たいていの探偵小説史でも取り上げられはするものの、たしかに別枠扱いである。しかし、『三十九階段』(1915)のジョン・バカンや『ミドル・テンプルの殺人』(1918)のJ・S・フレッチャーは、前述のライトの『傑作探偵小説』序文においてすら、探偵小説として語られている。とくにフレッチャーは英国では一時期、探偵小説の代名詞となるほどであったし、戦前の我国でも人気が高く、探偵小説のイメージを形作った一人だ。しかし、ヘイクラフトは『娯楽としての殺人』のなかで、フレッチャーを「探偵作家とよぶのは全くまちがいだ。なぜなら彼のおびただしい作品の大部分はミステリーにぞくするからだ。」としている。(しかし、にもかかわらず大きく取り上げざるをえなかった。)こうしたフレッチャー・タイプの作品(探偵の専門家でない人物が、さまざまな困難に出会いながら、事件の謎を解いていく物語)と、オプンハイムやル・キューやウォーレスの作風の違いを、明確に区別するのは、実際のところ、不可能なのではないか。

 ここで、ドロシー・L・セイヤーズの意見を見てみよう。セイヤーズはアンソロジー Great Short Stories of Detection, Mystery and Horror (1928)*5の序文において、まず、ポーの作品を次のように分析する。*6

『黄金虫』を一方の端に、『マリー・ロジェー』をもう一方の端におき、他の三編をその中間に位置させて、ポオは探偵小説の進むべき岐路に立っているのである。そこから出た発展経路は二つに分かれている。一つはロマン派、もう一つは古典派である。あるいは、それほど誤用されていない、すりきれていない言葉を使えば、純センセーショナル派と純知性派である。

 これはポーの作品の位置づけであると同時に、その後の探偵小説の発展経路をも示している点ですぐれた分析である。その上で、こう述べている。

前者(純センセーショナル派)ではスリルにスリル、神秘に神秘をつみかさね、読者は最終章ですべてがいっしょくたに解明されるまで、当惑・混迷の連続である。この派はドラマティックな事件と雰囲気が得意で、弱点はしばしば混乱したり辻つまが合いそこなったりする傾向があることで、最後の解説が十分な説明をなさない場合もあったりする。決して退屈ではないが時として、ナンセンスになるのである。後者の純知性派では、たいてい主要な事件が第一章あたりで起き、探偵は静かに手がかりから手がかりへと糸をたぐって謎の解明へと進み、読者はときどき材料を与えられて自分の歯が立つかどうかためしながら、この偉大な男の後について捜査のお供をするのである。この派の得意とするところは分析の冴えという点で、短所は退屈で物々しくなりやすいこと、ごくささいなことを勿体ぶってがなり立てること、動きや情調を欠くことである。

 純センセーショナル派のスリラー作品は決して少なくない。たとえばウィリアム・ル・キューやエドガー・ウォーレスその他の作品に実例がたくさんある。純知性派はたいへんまれである。

 この文を読めば、セイヤーズが純知性派としたものが、マーチのいう「探偵小説」であり、純センセーショナル派が「スリラー」だと解釈して間違いないだろう。そして、セイヤーズの意見では、この両者ともがポーから始まった「探偵小説」の発展形なのだ。ポーの作品に含まれていた理知的要素と扇情的要素。この二つともに、探偵小説の重要な要素ととらえ、その割合で探偵小説を分類しようとする試みといえる。まとめると、こうなる。*7

  • 純粋に知的なもの 「マリー・ロジェの秘密」  →「プリンス・ザレスキー」「隅の老人」などに受け継がれる
  • 純粋にセンセーショナルなもの 「黄金虫」   →エドガー・ウォーレスやウィリアム・ル・キューなどに受け継がれる
  • 混合型 「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」  →シャーロック・ホームズなど、その他すべて

 マーチやライトがいうように、スリラーと探偵小説は、似てはいても別物なのだろうか。それとも、セイヤーズがいうように、スリラーも探偵小説の一ジャンルなのだろうか。1920年代には探偵小説の一ジャンルと捉えられていたものが、1950年代には別ジャンルと認識されるようになった、という意見は、セイヤーズと同時代のライトやフリーマンの発言によって、否定することができる。

 探偵小説とは謎解きの文学である。

 この説明は、探偵小説の本質を説明しているようで、じつは大事なものが抜け落ちている。謎解きが興味のすべてなら、それが犯罪文学の中から生じたのはどうしてか、ということだ。解かれるべき謎が犯罪にかかわるものでなくてもかまわないのなら、ポーが自分の小説につけた ratiocinative tales (推論の物語)というジャンルとして発展してもよかった。しかし、実際はそうではなく、警官の物語(ロマン・ポリシェ)、探偵の物語(ディテクテヴ・ストーリイ)として、このジャンルは発展した。つまり、探偵小説には、ゴシック的なもの、犯罪実話的なもの、なんでもいいのだが、扇情的な要素が不可欠だ、ということなのだと思う。扇情的な要素と知的な要素、このふたつが、探偵小説を成り立たせている。

 探偵小説を「探偵が登場する物語」もしくは「探偵が謎を解く物語」とするならば、多くの(あるいはすべての)スリラー作品は、探偵小説となる。主人公が肉体的な危機に陥りつつも、それはやはり、「探偵が謎を解く物語」にかわりはないからだ。したがって、ここではスリラー作品も探偵小説の中に含めることにする。フレッチャーもウォーレスもル・キューもすべて探偵小説なのだ。そして、扇情的な要素と知的な要素の兼ね合いによって、探偵小説を二つもしくは三つに区分するのである。

 しかし、謎を解く過程の全くないスリラー作品というのも想像しにくく、センセイショナルな要素の全くない推理分析の物語を探偵小説と考えることも難しい。セイヤーズが純センセーショナル派とした「黄金虫」でも、暗号解読の手順は、非常に理知的である*8し、純知性派とした「マリー・ロジェの秘密」は、実在の女性殺害事件をもとにした実話風センセーショナリズムによって執筆されたともいえる。つまり、厳密にいえば、すべてが混合型となってしまう。探偵小説が常に扇情的な要素と知的な要素を兼ね備え、文学作品の要素の含有率は定量的には計れないとするならば、これは分類の区分肢としては、排他性を欠いた、はなはだ心もとない基準といえる。

 いずれにせよ、ここでは、探偵小説の重要な要素として、理知と扇情があること、そして、理知の文学である探偵小説(探偵小説の中の知性派)と、扇情の文学であるスリラー(探偵小説の中のセンセーショナル派)は、だれもが納得するように明確には区別出来ないものの、大雑把な傾向分類としては成り立つことを、確認しておこう。*9

*1:雑誌「宝石」に連載。『推理小説の歴史』の引用部は村上啓夫訳だが、前半は妹尾韶夫によって訳されている。

*2:引用は『推理小説詩学』[研究社]掲載の田中純蔵訳による。

*3:ミステリイ。他に「秘密小説」という訳語もある

*4:引用は『ミステリの美学』[成甲書房]掲載の松尾恭子訳による。

*5:米版 The Omnibus of Crime(1929)

*6:以下の引用はすべて、『推理小説の美学』[研究社]の田中純蔵訳による。

*7:もっともセイヤーズは、知性派の必須条件に「フェア・プレイ」をあげ、探偵が推理を行なうための手がかりを事前に提出していない作品は、あつかう題材にかかわらずすべてセンセーショナル派に分類している。例えばM・D・ポーストのアブナー伯父の一部作品も、センセーショナル派になっている。この辺り、用語の使い方を含めて、ぼくとしてはいささか納得しかねるものを感じる。これは、後でもう一度、フェア・プレイ(ゲーム派探偵小説)を取り上げるときに論じることとして、ここでは、あえて言葉どおりの「扇情重視型」「知性重視型」ととらえて論をすすめる。

*8:セイヤーズが「黄金虫」をセンセーショナル派としたは、解決の手掛りを事前に読者に示さないためだから、それはそれで整合性がとれているのだが。

*9:ところで、注記の形で、前から疑問に思っていたことをひとつ挙げておく。セイヤーズが『探偵・ミステリー・恐怖短編傑作集 第1巻』の序文で示した探偵小説の定義として、「探偵小説とは犯罪とその捜査をとりあつかった小説のうち、謎の設定とその解決が、もっぱら論理的操作によってのみ行われるものをさしていう」という文章がしばしば引用される。この『探偵・ミステリー・恐怖短編傑作集 第1巻』の序文とは、今回、何度も引用した「犯罪オムニバス」のことだと思うのだが、こうした文章は、この中には見当たらないのである。ぼくの読み方が悪いのだろうか。しかし、今回、考察したように、セイヤーズがこの序文であつかった「探偵小説」の範囲はかなり広く、「謎の設定とその解決が、もっぱら論理的操作によってのみ行われるもの」には限らない。どなたか、この定義文の典拠を御存知の方はいらっしゃいませんか?