「本格ミステリ冬の時代」はあったのだ――その2


 昨日は「屋根裏の散歩会」という、ミステリ・ファンのオフ会に参加してきました。そこで、ある方がこうおっしゃったのです。

「社会派(推理小説)は、昔はリアリティを重視した作風を指していたのに、今は社会問題を題材とした作品を指すようになりましたよね」


「エッ、そうなの?」

 わたしは、驚きました。私の認識では、これは逆だったからです。「社会派」はその名の通り、もともとは社会問題を取り上げた推理小説を指すものと思っていました。例えば典型的な例でいえば、松本清張の『砂の器』や水上勉の『海の牙』などですね。『日本ミステリー事典』にも、権田萬治がこう書かいています。

社会派(しゃかいは)
 社会派推理小説ともいわれ、社会性の強い題材を扱った推理小説のことをいう。松本清張の長篇『点と線』『眼の壁』(ともに1958)が、戦前の日本の怪奇・幻想的な探偵小説には見られなかった汚職や手形犯罪、また右翼などの社会性豊かな題材を取り上げたことから、この言葉が使われ始め、続いて『海の牙』(60)で企業による公害問題を扱った水上勉なども社会派の名前で呼ばれるようになった。清張の社会派推理小説は、動機の社会性、トリックの現実性を強調するとともに謎解きを重視していた。つまり、社会派と本格的な謎解きは本来決して矛盾しないのだが、その亜流は次第に事件の内幕を描く底の浅い作品に堕していった。(後略)

 松本清張は一度も謎解き小説を否定したことはないし、自ら「社会派」と名乗ったこともありません。しかし、戦前からのエロ・グロ路線は否定しましたし、動機の社会性と同時に、リアリティのある設定も重視しました。

 このことから、「社会派」=「リアリティを重視したミステリ」という認識は、意外と根強いようです。たとえば、綾辻行人の講演をまとめたサイトに、以下のような発言が記されていました。(それぞれ別のサイトです)

社会派ミステリには、そもそも本格ミステリに対するアンチテーゼという面があった。(綾辻行人発言)


ある意味絵空事、荒唐無稽な本格ミステリに対し、昭和30年代に自然主義的リアリティを主んじる作品を発表したのが松本清張。この清張式のリアリズムが以後支配的になり、反リアリズム的な本格ミステリは冬の時代を迎える。(綾辻行人発言)

 すでに述べたように、社会派ミステリは本格ミステリ全体に対するアンチテーゼとして出てきたのではありません。このあたりの綾辻行人の誤った認識を、そもそも問題にすべきなのでしょう。

 綾辻行人は「反リアリズム的な本格ミステリ」という言い方をしています。この「反リアリズム的」というのは、「本格ミステリ」全体にかけて発言したわけではないのかもしれません。つまり、本格ミステリには、リアリズムな作風と反リアリズムな作風があるが、清張以後は、反リアリズムな作風は衰退してしまった。しかし、リアリズム重視の謎解き小説はしだいに増えていった。こういいたかったのでしょうか。でも、どうも全体の発言の主旨を勘案すると、「本格ミステリ」はすべて「反リアリズム的な」もの、という意味で言っているように感じられます。つまり、「戦前からの怪奇色のつよい荒唐無稽な探偵小説」が、すなわち「本格ミステリ」なのだ、と。こう解釈すると、たしかに清張が否定したのはまさにこのようなものでした。「社会派ミステリには、そもそも本格ミステリに対するアンチテーゼという面があった。」という発言も理解できます。

 この「本格ミステリはもともと反リアリズム的なもの」というとらえ方は、現在の本格ミステリ・ファンには根強くあるようです。本格ミステリに対して、「リアリズムに欠けている」と評するのは、女性を「男らしくない」といって否定するのと同じことだ、とまでいう方もいる。そのため、例えばトラベル・ミステリ(アリバイ破りものをそう呼んでいる気もしますが)は「リアリズムが作品の表面に強く押し出されている」ために「本格推理と対立する概念の社会派に含まれる」とする論者もいます。この考え方からすれば、たしかに「本格ミステリが長く冬の時代を迎えていた」というのも、全くその通り、としかいえなくなります。鮎川哲也は、現実に根ざした「荒唐無稽でない」謎解き小説を書き続けましたから、本格ミステリを駄目にした筆頭株でしょうね。

 しかし、こうした考え方は、かつてはありませんでした。それは社会派の時代をいっているのではありません。戦前にも、欧米の黄金時代にも、そんな考え方はありません。乱歩は自分の通俗長篇を「本格」とは思わなかったでしょう。探偵小説を近代的にした、とされるシャーロック・ホームズものや、アメリカの探偵小説を一夜にして大人にした、とされるヴァン・ダインの作品は、じつはそれ以前の荒唐無稽な作風をリアリスティック(もちろん当時のリアルですが)にしたから、そう呼ばれたのです。

探偵小説にとっては、現実感が不可欠である。探偵小説のプロットを自然主義的環境から取り出して、空想的な雰囲気を与えようとするこころみが何度か行なわれたが、いずれも失敗だった。「スペインの古城」的雰囲気というのは、読者に日常の実生活からの逃避を可能にするもので、普通の通俗小説には魅力や親しみをもたらしてくれる。しかし、探偵小説の場合は、現実感が十分に保たれていないと、その目的が――つまり解決にともなう精神的な報いが――失われてしまいがちである。謎そのものにつまらない感じが出てきて、読者は無駄な努力をしているという感じを抱きがちなのである。(「傑作探偵小説」序文/『推理小説詩学』より引用)

 これは、松本清張の言葉でも、レイモンド・チャンドラーの言葉でもありません。ウィラード・ハンティントン・ライト、すなわちヴァン・ダインの言葉です。荒唐無稽な設定、反リアリズム的な状況は、スリラーと呼ばれた怪奇・冒険色の強い作品には多かったのですが、探偵小説(ディテクティヴ・ストーリイ)はきちんと現実に則って謎を設定しないと駄目だ、と黄金時代から言われ続けていました。それ以前の怪奇的な要素や恋愛的な要素、すなわち古典的ロマンスを否定したところから、欧米の探偵小説黄金時代は形成されたのです。しかし日本では、扇情的スリラーが「探偵小説」と勘違いされていたから、乱歩などは悩んでいたのです。

 「本格ミステリ」をどうとらえるかで、「冬の時代」があったかどうかも、あるいはいつが「冬の時代」だったのかという認識も、違ってきます。

 わたしは「本格ミステリ」を「反リアリズム的な作品」とは考えません。ここで細かい定義論争になると際限がなくなりますから、おおざっぱに、(犯罪にかかわる)謎が論理的に(リアリスティックに、といってもいいですが))解かれる小説、としておきます。論理による謎解きもの、というぐらいの意味です。これは、都筑道夫が『黄色い部屋はいかに改装されたか?』で考察している「パズラー」と、ほぼ同じ意味と思ってください。

 さて、こうした現実に根ざした謎解きものは、昭和30年代から40年代を通して書き続けられました。謎解き(あるいはトリックや意外性を重視した小説)そのものが廃れたわけではありません。しかし「謎解きだけ」では、作者も読者も物足りなくなったのも事実だと思います。謎解きは含まれるが、それだけではなく、それに付加するものが必要だという風潮があった。こうした認識が主流を占めていた時代を、「本格ミステリ冬の時代」と呼ぶことも、可能だと思います。

 (さらに続く)