都市の犯罪と探偵小説

 探偵小説(ディテクティヴ・ストーリイ=推理小説=ミステリ)について、「探偵小説が扱う犯罪は、基本的には都市に起こる犯罪である」という趣旨のことを、自明のものとして書きてきた。しかし、これは少し説明をしないと、納得していただけないかも知れないと思うようになった。例えば、ハードボイルドは都会のドラマであるが、本格ミステリ(とくに黄金時代のもの)は「田舎の大邸宅で起こる怪事件」で、都会にはなじまない、と思っている人もいるような気がしてきたからだ。


 こういう風に思っている人は、けっこう前からいたようだ。『推理小説詩学』に収められている「罪の牧師館」の中で、W・H・オーデンはこう言っている。

ぼくにいわせると、探偵小説の背景はたいていイギリスの田舎ということになっていて、そうでないものにはなかなかお目にかかれない。
(中略)
(探偵小説の舞台としては)田舎の方が都会よりもよいし、スラム街よりは屋敷町の方がよい。

 この文章が書かれたのは、1948年のことである。つまり、いわゆる「黄金時代」が終わってしばらくした頃に、過去を振り返りつつ、自分が好きな探偵小説のパターンを分析しているわけだ。オーデンがこういったのは、もちろんレイモンド・チャンドラーの有名な「死体を牧師館の庭から出して、殺人は手馴れた者の手にゆだねるつもりだ」という言葉があったからだろうし、事実、この文章を引用して、「とんでもない誤りである」と結論づけている。

 オーデン氏の趣味に異議をとなえる気はないが、探偵小説は都市文学として誕生している。探偵(「刑事」の意味も含んでのディテクティヴ)とは、都市犯罪を取り締まるために生れた職業である。職業としての探偵に限定しなくとも、ポーの「モルグ街の殺人」がどういう物語だったかを思い出せば、探偵小説と都市との関係は明らかである。ポーに続く「探偵小説」の流れを見ても、十九世紀においては、都市の犯罪を解決する物語として発展してきた。

 この「探偵小説」の特質を的確に言い当てたのが、チェスタトンである。彼の「探偵小説の弁護」(1901)には次のように書かれている。

探偵小説の本質的美点の第一は、それが現代生活の詩的感覚といったものを表現した最初で唯一の大衆文学であるという点にある。(中略)大都会をなにか未開で明白なものにして実感することにかけては、探偵小説は「イリアッド」的な存在なのである。誰の目にも明らかなとおり、探偵小説の主人公、すなわち探偵は、おとぎの国に出てくる王子さまの孤独と自由にも似た心情でロンドンを歩きまわり、その果て知らぬ旅のおりおりに行きかう乗合馬車は、妖精の舟と同じ鮮やかな原色を塗ってあるように見える。町の燈火は、いつか無数の妖魔の目のように燃えはじめる。なぜならそれらは作者だけが知っている読者には知らされない秘密を、それがどんなにお粗末な秘密であろうと、守りぬこうとする守護者であるからである。(中略)
 都会は、実を言えば、田舎よりもはるかに詩的なのである。

 それまでは、ロマンティシズムとかきたてるものは、自然(田舎)であった。謎と神秘、そして恐怖は、田舎にこそあった。しかし、チェスタトンは「都会は田舎よりもはるかに詩的」でではないか、と言うのだ。探偵小説のみが、それに気がついたのだ、と。

 その後の探偵たちが「時おり、ことのほか奇怪で謎に満ちた殺人事件を調べるために、人里はなれた大邸宅に誘い出されはしたが、彼ら自身は、都会の刻印を明瞭に保っていて、都会の趣きをいつでも、ものうげな小さな村や荒れ果てた原野にもちこんだのであった。」

 この引用は、J・G・カウェルティの『冒険小説・ミステリー・ロマンス』からのもので、ぼくも同感である。英米の黄金時代の作品だけでなく、横溝正史金田一ものがどういう物語だったのかを思い出せば、探偵小説における都市と田舎の関係は明らかである。しかし、カウェルティはこの後すぐに、こう述べて、ぼくを戸惑わせる。

古典探偵小説の世界から、アメリカのハードボイルド小説の世界の中に歩みよると、都市観がほとんど逆になっていることに気づく。新アラビアン・ナイトの代わりに、ここには、現代社会の空虚さ、腐敗そして死があるのである。

 そして、カウェルティはチャンドラーやエド・マクベインの小説の一説を引用して、チェスタトンが提示した都市観と比較してみろ、とおっしゃる。「アラビアン・ナイト風の魔力はたしかにあるが、それをつらぬく基調音は、襲撃、裏切り、危険である。」

 カウェルティに言わせれば、乗合馬車の行きかうロンドンと、襲撃、裏切り、危険のあふれれるニューヨークやロサンゼルスは、「都市観がほとんど逆になっている」とのことなのだが、これでは、「田舎にはロマンがあり、都会は殺伐としている」と思い込んでいる、つまりチェスタトンが指摘するまえの「常識」にとらわれた人々そのままではないか。

 もちろん、ハードボイルド小説も、「都市の神秘」を描いているのである。描き方が違うだけなのだ。チェスタトンの言った「おとぎの国に出てくる王子さまの孤独と自由にも似た心情で」大都会を歩きまわる「探偵小説の主人公、すなわち探偵」が、「卑しい街を行く孤高の騎士」すなわりハードボイルド探偵の姿そのものであることは、指摘するまでもないだろう。

 つまり、デュパンからホームズ、そしてハードボイルドまで、一貫して探偵小説は都市におこる犯罪(=都会の神秘)を描いてきたわけだ。その流れは、エラリイ・クイーンやヴァン・ダインの長編ミステリにも、トマス・ハリスのサイコ・スリラーにも、江戸川乱歩の探偵小説にも、松本清張の社会派推理小説にも、宮部みゆきの長編小説にも、北村薫日常の謎にも、そのまま通じている。すべては、探偵小説の大きな流れのなかにある。