■ロマン・フィユトン/その後のガボリオ
――フランス 1840年代〜1860年代
ガボリオが創設したジャンル、すなわち探偵=刑事が犯罪事件の謎を解いていく過程を中心的主題とした小説は、当時のフランスではなんと呼ばれていたのか。現在のフランスでは、このジャンルは通常 roman policier (ロマン・ポリシェ)と呼ばれている。直訳すれば「警察小説」だが、日本や英米でいう警察小説とは違い、いわゆるミステリ、推理小説、探偵小説全体のジャンル名になっている。ボワロー=ナルスジャックの『推理小説論』も、原題はLe Roman Policier であり、この名称のものにポーから黄金時代の作品、スパイ小説まで論じられている。
しかしこれはフランス語の語彙としては比較的新しいもので、十九世紀フランスでは「犯罪小説 roman criminel」、とりわけ1860年代以降は「司法小説 roman judiciaire 」がもっとも一般的な用語だった。「司法小説」という表現は、ガボリオの作品を掲載した『プチ・ジュルナル』の創刊者モイーズ・ミヨーが発明したもので、ガボリオの生前、彼の作品はもっぱらこの名称で呼ばれたのである。(『推理小説の源流』p84)
この名称から思い出されるのが、明治21年(1888)に黒岩涙香が『ルルージュ事件』を翻案した『人耶鬼耶』である。
この『人耶鬼耶』の表題には「裁判小説」という角書が設けられ、まだ「探偵小説」の呼称が定着していなかった様子を示すとともに、涙香が西洋の法制度を紹介したかった意図の一端がしのばれる。(「続・欧米推理小説翻訳史」長谷部史親/EQ連載)
この見解は間違ってはいないだろうが、ガボリオの作品に使われた roman judiciaire の訳語として「裁判小説」が用いられた可能性はあると思われる。*1もちろん、涙香の翻案は英訳をもとにしているから、この言葉が英米でのガボリオ翻訳本にも使われていたという確認は必要であるが。
ガボリオは1860年代後半に立て続けに五編のルコック・シリーズを書き、それっきりこの名探偵を見棄ててしまった。犯罪事件の解決というプロットの持ちネタが尽きたのであろうか。それとも、探偵小説に対する人気が衰えたのであろうか。少なくとも探偵小説への興味がなくなったわけではないようだ。というのは、1873年に死去するまでの数年間にも、いくつかの探偵小説の短篇を発表しているからである。
死後の1876年にまとまれれた短篇集『バチニョルの小男』は、《クイーンの定員》の#8にも選ばれている。表題作は、ジュリアン・シモンズによれば「純粋の推理小説にもっとも近づいた秀作」で「疑いなく傑作の名に価する。」この作品の翻訳は最初《EQ》誌に掲載され、のちにアンソロジー『クイーンの定員』の文庫版に収録された。黒岩涙香の「血文字」の原作でもある。
バチニョルに住む小柄な老人の死体が発見される。死体の脇には血文字で彼の甥の名が記されていて、老人が死に際に犯人の名を書き残そうとしたと思われる。探偵小説にあらわれたダイイング・メッセージの最初の例かもしれないが*2、すでにこの作品で、これが被害者が書いたものか、あるいは犯人が別な容疑者に疑惑を向けるために残したのか、はたまた頭のいい犯人がわざと自分の名前を書いて容疑をのがれようとしたのか、三段階の推論が披露されるのである。最後の推理を述べたのは探偵役メシネ警部の妻であって、メシネに言わせると「妻にしてみれば、犯罪はみな考え抜かれた完全犯罪だと思い込んでいる。だから、どれも兇悪犯が仕組む悪辣な陰謀だと考える」のだそうだ。結局、この推理ははずれていたのであるが、探偵趣味への皮肉な視線も見受けられ、発表時期(1870-71)を考慮すると、ガボリオが決して凡庸な作家ではなかったことを証明している。
同短篇集のもう一編の「失踪」をもとに、涙香は「紳士の行ゑ」を書いている。「クイーンの定員」でクイーンはこの掌編を「この歴史的に重要な短編小説は、ガボリオの長編殺人小説の典型的な雛形である――現代人にとっては長ったらしいが、フランス的香気やガーリックの味わい、理屈っぽいリアリズムなどに満ちている。」として、詳細に内容を紹介している。しかし、作品としてはまさに「雛形」でしかない。
『娯楽としての殺人』は、ガボリオの項目をこうまとめている。
後世の探偵作家は彼に借りがある。彼はじっさいにあたらしい路程標はうちたてなかったが、しかし正直な農夫としてひろびろとした処女地を開拓したのである。
この正直な農夫の開拓した農地に、やがてさまざまな果実が実ることになる。