■流血と血糊は女の領域/ルイザ・メイ・オルコットのスリラー
――アメリカ 1850年代〜1860年代
ヘイクラフトはポー以降三十数年間のアメリカ探偵小説史を、こう総括する。
もし読者がニック・カーターとその同僚たちや、なかば小説的なピンカートンの回想録などを、探偵小説の威厳のために受けいれる気がないとするなら、アメリカの土地はポーの「盗まれた手紙」(1844)からアンナ・カサリン・グリーンの『リーヴェンワース事件』(1877)まで探偵小説にとっては休墾地として止まっていたといわねばならない。この空白の説明には多くのことがいわれるが、なかでも主なものは、イギリスはもとより移り気なフランスでさえ当時なかった破壊的な国内戦争があげられるだろう。(『娯楽としての殺人』p82)
もともとセンセーショナルな娯楽読物として扱われてきた探偵小説に、「威厳」などというものがあるのかどうかはさておき、「ヘイクラフトのこの文章は(中略)よくある探偵小説史の偏狭な視点をあまりにもあからさまにしている」と、小鷹信光は『ハードボイルド以前』の中で揶揄している。しかし、その小鷹にしろ、次のように言わざるを得ないのも、また確かなのである。
探偵小説の歴史という狭い視点から云々するまでもなく、人間と社会と犯罪のかかわりをテーマにした小説のジャンルにおいて、すでにアメリカが数十年のおくれをとっていたことは明白であろう。このことは、歴史の浅さというより、アメリカそのものがやっと目覚めかけていた時代のなかで、世の中があまりにもめまぐるしく移りかわり、新しい刺激や出来事を日々体験すること自体が優先したということを示している。センセーショナリズムを旗印にした、脚色された生々しい報道記事が、文学に先行していた時代だったのだ。(『ハードボイルド以前』p29)
イギリスでディケンズ(『荒涼館』1853年)やコリンズ(『白衣の女』1860年/『月長石』1868年)が、フランスでユゴー(『レ・ミゼラブル』1862年)やガボリオ(『ルルージュ事件』1866年)が、ロシアでドフトエススキー(『罪と罰』1866年)が作品を発表していた1850年代から60年代にかけて、アメリカではポーを継ぐような犯罪物語は現れていない。アメリカの1850年代は、女性作家が書いた「家庭小説」がベストセラーになった時代である。
アメリカは、いまや、いまいましい物書き女どもの大集団に、完全に制圧されてしまった。大衆が、あの女どもの手になるくだらない作品を喜んでいるかぎり、私に成功の望みはないし、成功したら恥ずかしいと思うだろう。
こう吐き捨てたのは、アメリカ・ルネッサンスを代表する作家、ナサニエル・ホーソーンである。1850年代に出版された小説でもっともよく売れた八冊のうち、ホーソーンの『緋文字』『七破風の館』、メルヴィルの『白鯨』を除く五冊は、以下のようにすべて女性作家の作品、それも『アンクル・トムの小屋』を除くと「家庭小説」と呼ばれた作品だった。
- 『広い、広い世界』(1850) スーザン・B・ウォーナー
- 『アンクル・トムの小屋』(1852) ハリエット・ビーチャー・ストウ
- 『クリフトンの呪い』(1852) E・D・E・N(イーデン)・サウスワース
- 『点灯夫』(1854) マライア・スザンナ・カミンズ
- 『嵐と陽光』(1854) メアリ・J・ホームズ
アメリカの家庭小説は、キャサリン・マライア・セジウィック(1789-1867)が1822年に発表した『ニューイングランド物語』にはじまる。これは、孤児となった少女が叔母に引き取られ、さまざまな逆境のなかで適切な判断を下しながら、教師として自立を果すまでの物語で、主に少女の教訓のために書かれた。家庭小説は『広い、広い世界』(1850)のヒットによって一挙に読者層を広げ、1870年代まで人気を博したという。
アメリカでは、アメリカ独自の女性像を作ろうとしていた。誘惑されて捨てられるような女性は、ヨーロッパ的な弱者とみなされ、新大陸の共和国の女性としてはふさわしくなかったのである。実際、きわめて少数の例外を除いて、「家庭小説」の終わりは幸せな結婚であり、結婚後の性や男女関係が描かれることはない。アメリカ文学には、1820年代以降十九世紀末に至るまで、もはや堕落する女性は主人公としては登場しない。(進藤鈴子『アメリカ大衆小説の誕生―1850年代の女性作家たち』p62)
家庭小説が売れた背景には、当時のアメリカには男性よりも女性読者の方が多かった、少なくとも無視できないほどいたことを示している。
女性の多くは経済行為を男性に託し、読書という行為によって心の豊かさを求めた。しかし、女性のなかには、家庭にいながら自ら収入を得ようとするものもいた。そうした女性の選んだ職業のひとつが、女性向け文学の供給者としての仕事、すなわち作家業であった。「家庭小説」や短編小説、児童文学の多くが、主婦作家や家計を担う独身女性によって書かれたのである。(進藤鈴子/同書p89)
そうした女性のひとりが、『若草物語』(1869)であまりにも有名なルイザ・メイ・オルコット(1832-1888)である。よく知られるように、マーチ家の四人姉妹の次女ジョーはオルコット自身をモデルにしている。ジョーと同じく四人姉妹の次女だった彼女は、二十代から教師やコンパニオン(上流家庭の娘の話し相手)、文筆などで家計をささえていた。『続・若草物語』には、ジョーが家計のために懸賞小説に応募するエピソードがある。ジョーは数々の「ゴシック調のタイトルと誇張した表現をちりばめた劇的な筋立ての通俗小説」(羽澄直子「仮面が隠すもの、暴くもの」)を書き、「「公爵の娘」は肉屋の勘定を払い、「幽霊の手」は新しい敷物を買い、「カヴェントリー家の呪い」は雑貨屋の払いをすませたうえみんなのガウンを買うという恩恵をマーチ家にもたらした。」(角川文庫p66/吉田勝江訳)
作品の中で、ジョーが「がらくた文」を書くきっかけとなったのは、絵入り新聞に掲載されたS・L・A・N・G・ノースベリ夫人の作品を読んだことだった。このS・L・A・N・G・ノースベリ夫人は『クリフトンの呪い』の作者E・D・E・N・サウスワースのもじりであるという(羽澄直子/前出)。そしてオルコット自身も1850年代から60年代にかけて、ジョーと同じように「血みどろで煽情的なスリラー」を書いていた。これらは匿名か別名で発表されたため長らく秘されていたが、1940年代に存在が確認され、1970年代になって二冊の本としてまとめられた。
こうして明るみになったスリラーは、誘惑、姦通、暴力、殺人、ストーカー行為、麻薬中毒、血なま臭い復讐などに彩られており、『若草物語』のような愛と良識に満ちた家庭小説とのあまりの違いに驚いた読者は少なくなかった。しかしその驚きは仮面をかぶって世間を欺いた作者への失望ではなく、むしろその複雑で才気豊かな多面性への称賛であった。スリラー発見は1970年代のフェミニズム批評の高まりと相まって、オルコットおよび『若草物語』再評価を促進する大きなきっかけとなった。(羽澄直子「隠されたスリラーの秘かな楽しみ」)
こうした作品が書かれた最大の理由のは、ジョーがそうであったように経済的理由であろうが、オルコットにとってはそれだけでななかったようだ。
ジョーとの大きな違いは、オルコットのセンセーション・ノベル執筆には、経済的欲求だけではなく、本人の精神的欲求も大きかった点である。少女小説の登場人物ジョーを描く際には、世間の良識に合わせて、センセーション・ノベルを非難するという仮面をつけなくてはならなかった。ジョーの執筆理由は、家族を助けるという美徳に基づくものに限定せねばならず、さらにはジョーに罪悪感を覚えさせ、センセーション・ノベルと決別させなくてはならなかった。しかし作者自身は、執筆によって自分が悪徳に手を染めて堕落したとは考えていなかったようである。オルコットは友人に、自分は血なま臭い煽情的な話に強く引かれていると告白している。(羽澄直子「仮面が隠すもの、暴くもの」)
オルコットのスリラーの中で、最も高く評価されているのがA・M・バーナード名義の「仮面の陰で」Behind a Mask (1866) である。この物語は、羽澄直子の論文によると――
ジーン・ミュアという女性が「身寄りのない十九才」と称してコヴェントリー家の家庭教師になり、雇い主の家族──特に若いジェラルド、エドワード兄弟と初老のジョン卿──を魅了し、正体の暴露を危機一髪でかわしてジョン卿と結婚するというスリルに満ちたものである。(羽澄直子「仮面が隠すもの、暴くもの」)
じつはジーンは三十歳になる元女優で、彼女はコヴェントリー家の男たちと結婚にこぎつけようと「中産階級の理想的な女性像」である Little Woman になりすましていたのである。一度はエドワードによって正体を暴かれるが、ジョン卿に巧みにいいより、ついにレディ・コヴェントリーの称号を手に入れ、「ジーンの完全勝利で物語は終わる。」『若草物語』の原題が Little Women であることや、この作品の題名を考えると、多くの裏読みが可能な作品である。また、ジョーが書いたという「カヴェントリー家の呪い」は、この作品を指しているとも推測できる。
自分の才能(演技力)だけでなんとか這い上がろうとする女性像は、たとえばカトリーヌ・アルレーの『わらの女』のヒロインなどを思い出させるし、中産階級の男たちを手玉に取るあたりは、ミス・ブラッドンの『レディ・オードリーの秘密』に通じる部分があるのかもしれない。
また中篇「V・V:あるいは策略と対抗策」(1865)は、貴族の結婚をめぐって踊り子や謎の未亡人、パリからきた探偵デュポンらが登場し、「悪事を働こうとする悪の側と、正義に則ってその悪事を暴こうとする善の側の戦い」(辻本庸子/『探偵小説と多元文化社会』第四章)が描かれる。
オルコットのスリラー作品で、執筆当時(1866年)は未発表だった作品が、邦訳もある『愛の果ての物語』である。若い女性が年の離れた男性と結婚するが、じつはこの男には隠した妻がいて、自分の結婚が無効だったことに気がつく。こちらは、前半部分が『レベッカ』やフランシス・アイルズの『犯行以前』の設定を思い出させ、男の執拗な追跡とヒロインの逃走がヨーロッパ各地の名所を舞台に描かれる後半は、映画「シャレード」のようなロマンティック・スリラーと言えそうである。
これらの作品にはいく分かの「探偵小説味」はあるもののも、「探偵小説」というには無理があるだろう。しかし、オルコットがこういう「血と雷鳴(ブラッド・アンド・サンダー)」の物語を書いた1860年代は、イギリスでセンセーション・ノヴェルがブームとなっていた時期である。アメリカでもこうしたセンセーション・スリラーに多くの需要があったことの証左になる。しかも、この時期は、ヘイクラフト=クイーンのリストによるアメリカ最初の長篇ミステリとされるシーリイ・レジスター Seeley Regester (1831-1886) の The Dead Letter が発行された1867年より早いのである。
マイケル・E・グロストは A Guide to Classic Mystery and Detection http://home.aol.com/mg4273/classics.htm で、オルコットやレジスターの作品は、英国のセンセーション・ノヴェルの「アメリカのいとこ」であると言う。そして、レジスターの作品には「謎とその解答」があるために「探偵小説」 detective tales になっているが、、オルコットの作品にはそれがないため、サスペンス小説 suspense fiction にとどまっていると指摘する。たしかに、The Dead Letter は素人探偵バートンが登場して謎を解決しようとする物語のようだ。
ある法律家の長女の婚約者が殺され、それが従兄弟の犯行であったことが、探偵と語り手の共同捜査から明らかになる。語り手の次女との結婚が、事件の解決とセットになって物語が終わる。途中から犯人像が明らかになってしまい、その緩慢な物語展開に退屈するものの、ゴシック風な道具立てに、ロマンスを絡ませるという、以後女性作家の探偵物に多く見られる原型がここに見られる。(辻本庸子/『探偵小説と多元文化社会』第三章)
アンナ・カサリン・グリーンが突然あらわれたわけでなはい。その登場の背景には、これら多くの「家庭探偵小説」が横たわっているのである。そう考えると、「オルコットがA・K・グリーンらに代わってアメリカ・ミステリの母の座を占めた可能性を夢想してみる」(長谷部史親『ミステリの辺境を歩く』)ことは、決して不可能ではない。
19世紀半ばの主要な大衆婦人雑誌に関わっていたアン・ソフィア・スティーブンス Ann Sophia Stephens は、「女性にとって、家庭と炉辺同様、興奮と娯楽性、流血と血糊が女の領域で、それは女性作家にとっても女性読者にとっても同じ」と主張した(Nina Baym, “The Rise of the Woman Author”/羽澄直子「仮面が隠すもの、暴くもの」より孫引き)という。アン・スティーブンスは《グレアムズ・マガジン》の寄稿者のひとりで、一時期、編集者としても名をつらねた女性だ。つまり、ポーの同僚でもあった。のちに彼女は『マラエスカ/白人ハンターのインディアン妻』という作品を書き、1860年にビードル社から叢書の一冊として出版した。安価なうえにも安価なこの本は、三十万部を売り上げる大ベストセラーとなった。これが、いわゆるダイム・ノヴェルの記念すべき第一作である。