世界ミステリ史概説2

■世界ミステリ史概説(2)/ポーからドイルまで(1841-1890)


 文学における犯罪と悪のテーマは古く世界共通であるのに、犯罪の解明を物語の中心的興味とした文学は近代になってからしか登場しない。探偵小説の生成を民主主義の達成と関連付ける説には眉に唾をつけたくなるものだが、歴史的事実としては、英米仏に近代的な警察組織が確立したのとほぼ時期を同じくして、探偵小説は誕生している。


 1841年の4月に《グレアムズ・マガジン》に発表された「モルグ街の殺人」が、最初の近代的探偵小説であることに異議を唱えるものはいないだろう。エドガー・アラン・ポーは、謎に満ちた犯罪を論理によって解き明かす物語を作り出した。つづく「マリー・ロジェの秘密」(1842)で実際の犯罪の解明を示し、「盗まれた手紙」(1845)では悪人との知恵の戦いを描く。「謎物語」とピカルーン・ロマンスとゴシック小説が、ここでひとつに合わさったのである。それは扇情と理性の合体であった。ポーの小説はイギリスとフランスにわたり、犯罪を解き明かす物語を生み出していく。

 19世紀前半、産業革命による都市人口の増加に伴い、都市犯罪も増えていった。それを取り締まるため、英仏に刑事(ディテクティヴ)という職業が誕生する。初期の刑事はヴドックに代表されるような犯罪者あがりの者が多く、民衆のヒーローからは程遠かった。しかし法が整備され、また教育の普及で読み書きのできる中間層が増えてくるにつれ、イギリスでは1850年代から刑事を主人公とした大衆読物が姿を現す。その最初のものがウィリアム・ラッセルの『ある刑事の回想録』Recollections of a Detective Police-Officer (1849-53連載/1856)であり、これはウォーターズという刑事の体験談の形をとっていた。これ以降、世紀末にかけて、こうした「刑事の回想録」は人気を得、数多く出版される。一方、ディケンズ1850年から53年にかけて、警察の業務全般や刑事の捜査についての好意的な記事を発表する。さらに1852年から書きはじめた『荒涼館』に、英文学における最初の重要な探偵であるバケット警部を登場させた。『荒涼館』はバケット警部が犯罪を捜査する過程が重要なエピソードとして語られる。

 ディケンズにはポーの影響が見られないが、彼と親交のふかかったウィルキー・コリンズは、明らかにポーの影響を受けている。『白衣の女』(1860)は、奸計に満ちた犯罪を計画する悪人とそれを阻止しようとする女性との、知恵の戦いが中心的興味であった。『白衣の女』は大衆的な人気を博し、ヘンリー・ウッド夫人の『イースト・リン』(1861)やメアリー・エリザベス・ブラッドンの『レディ・オードリーの秘密』(1862)が後に続いた。これらはセンセーション・ノヴェルと呼ばれ、1820年代頃まで流行ったゴシック小説の支流のひとつとされている。しかし、ゴシック小説が中世の外国を舞台としたのに対し、センセーション・ノヴェルは同時代の国内を舞台にし、よりリアリズムを重視していた。また、犯罪者など下層階級の生活が描かれるニューゲイト・ノヴェルとも異なり、センセーション・ノヴェルでは上流階級の「家庭の秘密」をめぐって物語が展開する。とはいえ、多くのセンセーション・ノヴェルは、犯罪の解明を主題としたものとはいえない。その中でコリンズが書いた『月長石』(1868)は犯罪の解明を中心にプロットが組み立てられ、また真相解明に至る手掛りが事前に読者にも与えられているため、「最初にして最長、最良の現代イギリス探偵小説」とも呼ばれる。

 フランスでは1840年代から新聞小説(ロマン・フィユトン)が盛んであった。大衆的な読物であった新聞小説は、犯罪を題材とすることも多かったが、中でもアレクサンドル・デュマ1854年から1857年に連載した『パリのモヒカン族』にはジャッカル警部が登場し、現場に残された犯罪の痕跡を分析し、足跡を観察し、密室の謎を含む謎の解明を行った。またポール・フェヴァルは犯罪を主題とした小説を数多く書き、ポンソン・デュ・テラーユのロカンボール・シリーズは犯罪者あがりの冒険家が主人公であった。こうした中で、ポール・フェヴァルの下働きをしていたエミール・ガボリオーは『ルルージュ事件』(1866)を発表する。これはヴィドックやイギリスの「刑事の回想録」などの犯罪捜査物語だけでなく、ポーの推理譚の影響も受けた作品であり、「世界最初の長篇探偵小説」と呼ばれた。ここで登場したルコック探偵はシリーズ・キャラクターとして、『河畔の悲劇』(1867)、『書類百十三』(1867)、『ルコック探偵』(1869)などでも主役をつとめる。ガボリオーの作品は多くが2部構成をとり、第1部で事件の発生とその捜査を、第2部で動機にまつわる過去の物語を描いている。この構成は、のちにドイルのホームズ長篇小説にまで続く。

 ガボリオーの作品は1870年代から80年代にかけて世界的な人気を得、その影響でさまざまな作品が生れた。アメリカではアンナ・カサリン・グリーンが『リーヴェンワース事件』(1878)に始まる一連の長篇探偵小説を上梓し、「探偵小説の母」と呼ばれた。これは、冒頭に提示された犯罪の謎が最後になって解かれる最初の長篇小説であった。また、1860年代から登場する《ダイム・ノヴェル》は1870年代から探偵を主役としはじめ、1880年代にはオールド・キャップ・コリアやニック・カーターなど多くの探偵が登場し、毎月事件を解決していった。私立探偵アラン・ピンカートンの実話と称する事件簿が出版されたのも、1870年代である。これらはジェイムズ・フェニモア・クーパーに代表される「開拓者物語」の流れも汲んでいるが、ガボリオーの影響も見逃せない。

 ガボリオーの影響はロシアや極東の日本にも及んだ。「ロシアのガボリオー」と呼ばれるアレクサンドル・シクリャレフスキーは1870年代から一連の「予審判事もの」を書き、ガボリオーの作品と供に大衆人気を得ている。それを一種揶揄するように、チェホフは短篇「安全マッチ」(1884)や『狩場の悲劇』(1884-1885連載)を発表した。『狩場の悲劇』は後に探偵小説で用いられる二つの代表的トリックの、最初期の使用例でもある。また日本では、1880年代の末(明治20年代はじめ)から黒岩涙香の翻案小説がはじまり、その原作はガボリオーやその後継者デュ・ボアゴベの作品が多くを占めていた。これにより、明治20年代に探偵小説が流行する。

 イギリスでもガボリオーは人気だった。ガボリオーの人気にあやかろうとして書かれたファーガス・ヒュームの『二輪馬車の秘密』(1886)は空前のペストセラーとなる。そしてポーとガボリオーの影響を受けたひとつの作品が登場する。それがシャーロック・ホームズがその姿を現すコナン・ドイルの『緋色の研究』(1887)である。この長篇(いまでは中篇といわれる分量だが)と、続くホームズの第2作『四つの署名』(1890)は、ガボリオーと同じ2部構成をとり、犯罪に至る動機を語る歴史冒険物語がその半分を占めている。しかし、ドイルは引きつづきホームズの短篇シリーズを発表した。探偵小説の歴史は、ここに新たな展開を見せることになる。