ミステリの分類(2)/探偵小説とは何か・その2――探偵の物語


 前回、考察したように、1880年代から1890年代にかけて「探偵小説」という言葉は一般化し、犯罪文学の一部に探偵小説というジャンルが生成した。では、当時、この言葉が意味するもの、つまり犯罪文学の中で探偵小説を特徴づけ、他から区別させていたものは、いったいなんだったのだろう。言いかえれば、探偵小説の本質とは、なんなのだろうか。


 探偵小説の始祖とされる「モルグ街の殺人」は、扇情的な要素もあったが、それよりも、作中に提示された謎が論理的に解かれて行く過程が中心テーマとなった作品だった。このような知的な読物が探偵小説と呼ばれたのだろうか。答えは、否である。

 例えば、G・K・チェスタトンが「探偵小説を弁護する」(1901)には、つぎのような文章がある。

大衆は一流文学よりも三流文学のほうが好みで、探偵小説は三流だから受けるのだ、というデマ。(中略)優れた探偵小説は粗悪な探偵小説よりはるかに受けがいいはずだ。ただ、困ったことに、多くの人は優れた探偵小説なんて代物は存在しないと考えている――まるで善良な悪魔みたいなものだと。(須藤昌子訳/引用は『ミステリの美学』[成甲書房]から)

 探偵小説はもてはやされていたが、それは粗悪で俗悪な作品だから、と多くの人が考えていたのである。だから、チェスタトンは弁護した。しかし、「明晰な推理のある知的な読物」として弁護したのではない。それが「都市のロマンティシズム」を体現しているから評価した。

 探偵小説の最大の長所は、現代生活の詩情ともいうべきものを表現した最初にして唯一の大衆文学だという点である。(中略)読者は誰もが気づくにちがいない。ロンドンの街を歩きまわる名探偵や捜査官は、さながら妖精物語の王子のごとく孤独と自由を胸に秘め、先の見えぬその旅のつれづれに行き交う乗合馬車は妖精の舟のように鮮やかな色彩に見えるということを。街の灯りは無数の小鬼(ゴブリン)の目のように爛々と輝く。なぜなら街灯は秘密の――いかに稚拙であっても作家は承知し読者は知らない――秘密の守護者であるから。街路の紆余屈折はすべてが真相の道標に、煙突の立ち並ぶ奇怪な空の光景は、猛々しく嘲弄するような謎の暗示に見える。
(中略)
警察ロマンスの探偵が孤立無援で盗賊どもの巣窟に立ち、ナイフや拳骨にかこまれて恐れを知らぬ態度は、独創性かつロマンティックな社会正義の代弁者を思わせる。(同前)

 一見、俗悪と思われるものに別の角度から光をあて、新しい価値を見いだすチェスタトンらしい言い方である。ここで重要なのは、チェスタトンが弁護している探偵小説とは、読者と作者が知恵の戦いをするような作品ではないということだ。探偵小説の主人公は、犯罪の謎を追って夜の都会を歩きまわり、また、悪党どものナイフや拳骨に敢然と立ち向かわなくてはならない。

 探偵小説という言葉が一般化していった1880年代から1890年代は、英国ではガボリオーの輸入からシャーロック・ホームズ譚が人々に受け入れられるまで時期と重なっている。すなわち、「探偵小説」という言葉は、当時の人々にとっては、まずはガボリオーの書くような小説、そしてシャーロック・ホームズが活躍するような物語だったと思われる。しかし、それだけではない。1860年代から大量に出版された「刑事の回想録」タイプの実話読物、ホームズとほぼ同時期に書かれたディック・ドノヴァンやセクストン・ブレイクなどの連作短篇、『二輪馬車の秘密』で大ヒットをとばしたファーガス・ヒュームの長篇小説、ニック・カーターを代表とするアメリカのダイム・ノヴェル。こうした安っぽい読物が大量に出回り、それがホームズ譚と一緒くたになって、探偵小説というジャンル・イメージを形成していた。チェスタトンの文章からは、それがうかがえる。

 では、こうした小説群の総称である「探偵小説」に共通する要素とはなにか、という最初の問題にもどる。ハワード・ヘイクラフトは『娯楽としての殺人』(1941)で探偵小説の本質を次のように述べる。

 謎(パズル)小説、ミステリー小説、犯罪(クライム)小説、そして推論と分析の小説はずっといぜんから存在していた――探偵小説はそれらに密接に関係している。だが、探偵小説そのものは純粋に近代の産物である。年代的にもそうとしかいえない。
 探偵小説の本質的テーマは犯罪を専門的に探偵するということである。これが存在理由であり、探偵小説をかたちづくる主要な要素でもあり、また『従兄弟』である謎(パズル)小説から区分される点でもある。あきらかに探偵というものがうまれるまでは探偵小説というものもありえなかったろう(し、また事実なかった)。(林峻一郎訳)

 ヘイクラフトによれば、探偵小説の本質は、謎でもなく、犯罪でもなく、推論と分析でもなく、「犯罪を専門的に探偵する」ことなのだ。これは、すでにのべた世紀末の「探偵小説」のジャンル・イメージに当てはめれば、うなずける説明といえる。ルコックもホームズも、ディック・ドノヴァンやセクストン・ブレイクやニック・カーターも、すべて犯罪事件の専門的探偵(刑事)である。少数*1ではあるが医者や貴族や女性など素人探偵もいたが、彼らも犯罪事件の専門家として、探偵行為を行なう。推理や分析よりも、読者との知恵比べよりも、まず探偵行為(犯罪の秘密を探りだす行為)そのものが、探偵小説には必要なのだ。こうした探偵小説観は、戦前の日本にもあった。例えば、中島河太郎の『推理小説展望』(1965)で紹介されている井上十吉の「探偵小説の定義」がそれである。*2

厳密に云う所謂探偵小説は比較的少ない。探偵小説と云えば、普通殺人若しくは強盗の事件で解決されない秘密を、警察や私立の専門的探偵が探索し発見する物語であって、我々の感ずる興味は、それらの探偵の行動、即ち事件の難問を解決する方法である。それ故、所謂探偵小説では探偵がその主人公となっている。(井上十吉「著名なる探偵小説家と其の作品」(1922))

探偵小説の始祖は一般にエドガー・アラン・ポーだと認められているが、シャール・オーギュスト・デュパンを描いた彼の三つの有名な小説は、今日の謂う探偵小説とは余程違ったものである。(中略)厳密な意味に於いての探偵小説を初めて書いた人、即ち倦む事を知らぬ敏捷な探偵が、犯罪の真の秘密を解決する小説を初めて書いた人としての栄冠はエミール・ガボリオーに与えなければなるまい。(井上十吉「バルザックディケンズ」(1922))

 1920年代の日本では、ポーのデュパンものは、「今日の謂う探偵小説とは余程違ったもの」だった。確かにポーの作品には探偵役の推論はあっても、探偵が事件を捜査し、それにしたがって謎が深まったり、謎が解かれていくという面白さは希薄である。探偵による探偵行為が中心的主題となっている小説を「探偵小説」とする。これもまた、ひとつの見識であろう。こうした定義を安易に、時代の産物、ジャンル概念が成熟する以前の勘違いとするのは間違いである。こうした発言をしたのはいずれも、探偵小説に深く親しんだ人々だった。彼らが探偵小説という言葉で括った小説群は、当時の人々にはひとつのジャンルと認識されていた。フランスではロマン・ポリシェと呼ばれ、それと同類の police romance という言葉があったのだから、Detective Story がまず「探偵の物語」として認識されるのは、必然でもあったといえよう。甲賀三郎の「探偵小説の定義」も、この流れにある。

探偵小説とは、先ず犯罪――主として殺人――が起こり、その犯人を捜査する人物――必ずしも職業探偵に限らない――が、主人公として活躍する物語である。(甲賀三郎「探偵小説講話」(1935))

さらに、1990年代にも、宮脇孝雄の次のような意見を見出せる。

ミステリとはなにか、推理小説とはなにか、と問われても、そう簡単に答えられるわけではないが、探偵小説とはなにかという問いには、比較的容易に答えを出すことができる。「探偵を主人公にした小説」というのがその答えである。(宮脇孝雄『書斎の旅人』(1991))

 探偵小説とは、探偵が主人公となって犯罪を探偵する物語の総称である。すなわち、探偵小説に本質的に備わっていなくてはならないものは、探偵である。この定義をひとまず採用してみよう。

*1:19世紀中に現われたアマチュアのシリーズ探偵は、それほど多くはない。

*2:井上十吉の文章はすべて、中島河太郎推理小説展望』より孫引き