『ぬすまれた宝物』ウィリアム・スタイグ

 評論社の「児童図書館・文学の部屋」シリーズの一冊。赤木かん子の『かんこのミニミニ子どもの本案内』で紹介されていたので、読んでみたのだが、近くの市立図書館に行くと推薦図書となっていて、いっぱい並んでいた。


 あひるのガーウェインは王室宝物殿の見張り役。本当はガーウェインは建築家になりたかったのだが、大好きな王さまに誠実さ買われて、この役を仰せつかった。ところが、その宝物殿から、貴重な宝物がつぎつぎとなくなっていく。鍵をもっているのは、王さまとガーウェインだけ。扉以外に出入り口はなく、鍵を無理やり開けた後はない。

 王さまが自ら宝を盗む理由はない。そこで「論理的に考える」ならば、犯人はガーウェインしかいないことになる、と総理大臣のアドリアンは主張する。ガーウェインは裁判にかけられ、有罪を言い渡される。敬愛していた王さまも、それまで友だちと思っていた仲間も、かれの無実を信じてくれないことに絶望して、ガーウェインは空を飛んで逃げ出し、彼らを憎みながら森に隠れ住むのだ。

 原題は The Real Thief (1973)――「本当の泥棒」である。状況証拠による冤罪、信頼関係のはかなさ、罪と許し、そして新しい信頼関係を築くまでが、短い枚数で描かれている。疑いが晴れたあとも、ガーウェインが心を開くことができた相手は真犯人だけ、というのは、よくできた犯罪心理小説のようだ。

 で、ミステリ読みとしての興味のひとつは、「密室状態」から宝物がなくなった方法であるが、こちらは動物をつかったトリック、ならぬ、登場人物が動物だから成り立つ。期待しないように。それよりも、この物語では、「論理的に考え」た結論より、信頼のほうが大事だ、というように見えること。でも作者は、そう言いたいわけじゃ、ないだろう。アドリアンの「論理」は、王さまがガーウェインびいきであることへの嫉妬から始まっている。なにに基準をおいて推理を始めるかによって、結論は違ってくる。「論理的な考え」は、出発点が違えば、どんどんとズレてしまう。論理的に考えるのがいけないんじゃ、ないんだよな。「ガーウェインは信頼できる」というのが、疑いようのない事実だと思われれば、そこから推理を発展すれば、正しい結論にたどりついた可能性はあるんだよな。