ミステリと批評

 千野帽子がミステリマガジンに連載している「誰が少年探偵団を殺そうと。」の、ここ数回の感想をかねて。


 要するに、これは千野帽子による「ジャンル小説読者」論である。ミステリ、SF、ファンタジー、あるいはライトノベルオタク文化など、いずれもある「ジャンル」が形成されると、それが純化の方向に向かう。2010年6月号でこれを論じた部分の小見出しは「自立した分野は純化する。」となっているが、千野はいいたいことは、ジャンル読者(ムラ人=自らをインサイダーと規定する読者)が純化を求め、ジャンル全体がそれに対応して(読者の求めにしたがって=好みの方向に)純化していく、ということだ。その過程でジャンルは異物を排除していく。これは、多様性を求めようとしない(排除しようとする)ジャンル読者が先にある、というのである。

 ジャンル小説が確立すると純化の方向に向かう、というのは正しいだろう。というよりも、ある方向に「純化」していく流れが、ジャンル小説の発生なのだ。それはジャンル小説読者の嗜好と一体化して「純化」していく。ジャンル小説読者というものがなければ、そもそもジャンル小説が発生しえない。

 では、ジャンル小説読者は、自らが好むジャンルの多様性を認めないのか。ムラ人(インサイダー)は異邦人を排除する方向にしか向かわないのか。千野の(彼曰く、外部からの)観察では、そうだ、という。そして以下のような例をあげる。

新本格登場時に反発した在来ミステリ読者も、笠井潔の言う〈ジャンルX〉が注目されたときに反発した在来新本格読者も、それぞれが純化した世界に異物が侵入することを恐れた――旧ミステリマニア、新本格ファン、オタク系ライトノベル読者は、純化した世界をそれぞれ守ろうとしただけなのだ。(「ミステリマガジン」2010年6月号)

 ぼくは、あきらかにジャンル小説読者であり、そのタイプはここで言う「旧ミステリマニア」に相当する。「ミステリ愛」たらいう気色の悪いものを持っているムラ人なのである。そして、ムラ人としての「ムラ」の境界線(興味の対象)は「ミステリ」全体にわたっている。怪奇幻想小説から扇情的スリラー、サスペンス小説、ハードボイルド、一部のSFやスパイ小説、そしてもちろん本格ミステリも。

 そういう旧来のムラ人として言わせてもらえば、なぜ「新本格」と呼ばれた小説が受け入れられなかったのかといえば、それが「古臭い謎解き小説に耽る時代錯誤的な」ものだったからではなく、ミステリ以外のジャンル(おそらくはある種のファンタジー小説)だったからだと、今では思える。また、千野が挙げる以下のような実例を眼にすると、

東京の大学ミステリ研の名門で新入生がライトノベルしか読んでいない、という話を聞いた。(中略)旧来のミステリファンからすれば学力崩壊であるが、ミステリファンでもライトノベル読者でもない者から見ればよくある「時代の曲がり角」にすぎない。(「ミステリマガジン」2010年6月号)

 なるほど、彼等はミステリ・ファンではなく、でもこの時期(2005年ごろ)にはまだライトノベルがジャンルとして確立していなかったから、しかたなくミステリ研に入ったのね、と思うしかない。でも、逆にいうと、そういう確立していない新しいジャンル(の読者)をも受け入れられる要素が「ミステリ」にはあったのだ、とも感じる。かつて、夢野久作小栗虫太郎やジャンル内に発生させ、また勃興時のSFや、ダールやスタージョンら「異色作家」をジャンル周辺に受け入れる寛容さを、このジャンルはもっていたのだと。

 さて、千野の論は、こうしたジャンル小説読者の非寛容性から、「(ミステリ)ファンは批評など求めていない」という言説へとつながっていく。千野に言わせると、「批評を喜んで読むのはファン以外の人間だ」ということになる。批評というのは外部の目で対象を照射することだから、インサイダーにとっては居心地が悪く、歓迎されないのだそうだ。

 はたして、そうなのだろうか。ぼくの実感では、ミステリは他のエンターティンメント小説に比べて、きわめて批評(評論)が活発なジャンルである。だから千野の指摘は意外だった。

 おそらく、ぼくが活発だと感じた批評(評論)の類は、千野の眼から見れば、「仲間どうしの乳繰り合い」に過ぎないのかもしれない。批評ではなく、解説というやつだ。そして、たしかに「ゲーデルとか他者とか自己言及性とか」いう言説には、あまり興味をもてない。これについては、批評の手法にも流行りすたりがあり、こうしたアプローチをぼくが好まないから、というしかないだろう。批評家としてはその時代の最先端の批評手法に誠実に対応したのかもしれないが、一般読者にその面白さをわかれ、といわれても困る。千野自身がいくつかの場所で書いているように、面白さにはさまざまな種類があり、万人向きの面白さと、一部の人にしか伝わらない面白さがある。万人に愛されるものが上でも、選ばれた少数に嗜好されるものが上でもない。ただ、対象に深くかかわることが出来、その真の価値を見出せるのは、いつでもほんの一握りの読者なのである。もともと批評の面白さが判る人は少数派だろう。その事実を無視して、ミステリ・ファン(あるいはジャンル小説読者)は批評がお嫌い、と総括するのはいかがなものか。

 そもそもミステリは批評との相性が言いジャンルといえるはずだ。SFが「価値の相対化」を行なったジャンルであるとすれば、ミステリは「批評を内包」させたジャンルである。千野が7月号で述べているように、「かつて、探偵は物語を相対化する人」だった。探偵は事件の外側にいて、関係者を冷静に観察し、彼らの価値観とは違った視点を事件に照射し、最後に彼らが気がつかなかった事実を語る。これは、つまり「批評」ではないのか。「ミステリ批評は「ミステリ」の下位分野」というような勘違いがおこるのも、もともとミステリというジャンルが批評的だったからではないのか。

 千野はこう言う。

本格ミステリ小説はサプライズを眼目とする小説である。そして、サプライズを「眼目とする」ことによって、驚きからもっとも遠くなってしまったジャンルである。(「ミステリマガジン」2010年7月号)

 この言い回しの、なんと探偵小説的であることか。まるで、チェスタトンのようではないか。

 ぼくには好きな小説や評論がたくさんある。その中に、ミステリというジャンルと共通する言説を見ることによって、それらの輝きがさらに増すのだ。