『読まず嫌い。』千野帽子

読まず嫌い。

読まず嫌い。

 千野帽子による文学案内。ジャンルごとに名作や佳作、珍品などを、思わぬ切り口で縦横に紹介してくれる楽しいブック・ガイド――ではない。たしかにブック・ガイド的な側面もあるし(「学園」の章など、知らないことだらけで面白い)、文学論としても興味深かったが(「歴史」や「ふたたび物語」など、なるほどねー、と感心した)、それよりも、ジャンルや作品への固定観念に囚われずに、もっと自由に、幅広く、楽しく本を読もうぜ、という啓蒙の書といえようか。


 千野帽子によれば、ジャンルや「おもしろさの理想形」にこだわる読書は、四方を壁に囲まれた狭い独房で身動き取れなくなった状態だという。だから、「ちょっと体を動かしただけでも、本を壁に叩きつけてしまう」ようになり、「囚人というより、自分の作った読書のルールに奉仕しつづける、もうほとんど奴隷だ」。でも、ほんのちょっと勇気をだして、独房から出てみれば、「明るくて狭い独房とは逆に、外は際限なく広くて真っ暗」なのだが、その暗闇を手探りで探検することで、「世界のなかの自分の位置を知る」ことができる。それこそが読書の愉しみであり、キーワードは「「ものすごくおもしろいものを、一生知らずに過ごしてしまうかもしれない」とつねに思い起こすこと」。

 たしかに言ってることは間違っていない。引きこもり系読者――「ミステリマガジン」の連載エッセイで云えば「ジャンル小説読者」のことだろうし、この『読まず嫌い。』ではもう少し一般的に、例えばかつていた「純文学」ばかり読んでいるような読者も指しているようだが――その限界は、大抵の本好きが多かれ少なかれ意識していると思う。「独房から荒野へ」って、スローガンとしてはかっこいい。

 でも、自戒を含めて云えば、「ものすごくおもしろいものを、一生知らずに過ごしてしまうかもしれない」と思い続けるのって、なんだか疲れないのだろうか? これって、「自分の知らないところで、みんないい思いをしている」というのと、どこかで通じてないか? 金儲けに目を血走らせた人も、いい女を漁り続ける人も、「ものすごくおもしろい本」を求め続ける人も、結局、同じじゃないの? そこにはロマンがあるのかもしれないが、一種の「功利主義」の匂いもただよう。あるいは、その「ものすごくおもしろいもの」って本じゃなくてもいいのでは? 「読書」という「独房」からの脱出も、当然、ありだろう。そして、貪欲に面白さを求め続けた果てには、なにがあるのだろう。

 まあそれでも、青年は荒野をめざすものだ。青い鳥は、森を彷徨ったものにしか手に入らない。

 とはいえ、この本がぼくにとって面白かったのは確かだ。「犯罪」の章で、「ファンが歴史を振り返ったときに、『モルグ街の殺人』を「最初のミステリ小説」として遡って認定する」というのは、まさにその通りである。ただし、バルザックの『コルネリウス卿』(1831)については小倉孝誠の『推理小説の源流』(淡交社/2002)に言及がある。『コルネリウス卿』自体は邦訳されてないので読めないけど。

 「文学全集」や「文庫」の位置づけについても同感するところが多かった。なるほどと思い、図書館に行って文学全集の棚を見ていると、たしかに楽しい。で、その棚にぎょうせい社から出ている《ふるさと文学館》って叢書を見つけた。日本全国の都道府県を題材にした文学作品を編集したもので、全55巻(「東京」が3巻、「北海道」「神奈川」「京都」「大阪」「福岡」が各2巻、それに「海外編」が1巻ある)をばらばら見ると面白そうだ。「岡山」には、横溝正史の「本陣殺人事件」がまるまる入っているではないか。で、中井英夫の「薔薇の夜を旅するとき」も収録された「東京 III」を借りてきた。そして、ああ、どこまでもぼくはジャンル小説読者なのだよ、と呟くのであった。