雑感

http://d.hatena.ne.jp/noririn414/20080119#1200729568


 文学の門外漢が云うのもナンだが、文芸批評の世界では、テクストは作者の意図と関係なしに読んでかまわないことは、常識だと思っていた。石原千秋なんぞをほんのわずか齧った程度だと、そうした考えも、すでに「古い」と云われているようだ。ミステリ評論では、まだそういうことが問題となっているらしい。


 「評論は小説の前に立てない」というもの、いかがなものか。小説が先になければ評論は生れない、というのなら、あらゆる創作物は先行作品がなければ生れない。ミステリに限らず、すべての小説(創作物)は、先行する小説(創作)を元にした「自分なりの見解=改良案」として発想され、構想され、執筆される。小説を一編も読まずにかかれた「小説」は、おそらく「小説」の形をなしていないだろう。そういう意味では、すべての創作は二次創作である。(これは、たしか丸谷才一のエッセイのどれかで読んだ見解である。)とくに、ミステリのような技巧的な小説では、それが顕著なはずだ。単にトリックの先行例を言っているのではない。ミステリという小説スタイルそのものが、そうしたものなのである。

 評論だって、同じこと。先行作品(批評しようとするテクスト)をもとにした創作なのであり、小説と同列の価値をもつ。「作者の意図の解説」とは、すなわち自らの読み方の提示である。そういえば、探偵小説とはそもそも、「テクストの読み」(=評論)を内在させた小説だったのではないか。

 なんだか、今さらのことしか、浮かんでこない。

 とはいえ、笠井潔の評論は、ぼくはほとんど理解できない。それに、〈草の根教養主義者〉ってイヤな言い方だなあ。○○マニアでいいんじゃないの? 鬼ィさん、ったら、小池一夫みたいだけどさ。