屋根裏の散歩会

 昨日は、月に一度の「屋根裏の散歩会」であった。月に一度、ミステリ好きの仲間が集まって、読書会のごときものをやったり、ミステリを中心にした無駄話に興じる会である。一種のオフ会か。(ネット普及前からこのようなことをやっているので、「例会」と称した方がしっくりするが)



 で、読書会のテキストはちくま文庫の『文豪怪談傑作選/森鴎外集』。参加者は7名であったが、読破率は極端に低かった。テキストの選定を間違えたのかもしれない。ちなみに、選んだのは僕で、言いだしっぺが完読出来なかった。


 読書会は、「文豪」とは何か、とか、この選集の作家の選び方、翻訳怪談のこと(作品集は鴎外の短篇と翻訳が半分づつ収録されている)、それに大学の国文を出た方がいらしてので、鴎外を中心とした近代文学についても話題は広がり、まとまりがないものの、楽しい読書会であった(はずである)。

 まあ、読書会は集まるための名目で、じっさいは「ミステリ無駄話」が楽しくて参加するのである。一次会が終わると有志は2次会の飲み会に、さらに有志は3次会のカラオケに。おかげで終電を逃した上、すっかり二日酔いである。

 あがった話題はさまざま。なにかけっこう面白いタメになるようなことを、言ったり聞いたりしたと思うのだが、ほとんど覚えていない。

 自分のメモのために、昨日話した中から思いついたことを書いておこう。

 昭和30年代には日本ミステリは社会派をはじめ、さまざまな新たなジャンル・作風を模索し、ミステリの書き方・枠組みは大きく広がった。その反動からか、昭和40年代になると森村誠一をはじめとして、大谷羊太郎斎藤栄、海渡英祐、西村京太郎、山村美紗、夏樹静子など、トリックをメインにすえた推理小説をもう一度書こうという作家が多く現れた。これは歴史認識の問題ではなく事実である。だから、SRの会の会報《SRマンスリー》の「密室特集号」(2006-5)で「(国内物の密室ベスト10に)抜けている昭和四十年代というのは「社会派」と呼ばれた作品が全盛の頃であるから」とあるのは、事実誤認といえる。この時期、密室を取り入れた作品は、作品数で言えば昭和二十年代や三十年代よりも多かったはずである。

 ではなぜ、それが「社会派」の一言で片づけられてしまうのか。

 昨日話した方は、謎解きミステリへの「飢餓感」がはっきりとあったと言う。それらの作家がトリックを用いた不可能犯罪作品を書いていたことは知っていた。しかし、それは「わたしが読みたいものではなかった」。

 この「飢餓感」については、実を言うと僕も覚えがある。海外のミステリの「古典」と呼ばれるものをおおむね読んだ後、さてその次に読むものとして、現代の日本の作品で似たテイストの作品があったか、というと、それはなかった。だから、日本の戦前から戦後すぐの時代の作品、具体的には横溝正史と「大ロマンの復活」シリーズに流れていった。そして、雑誌『幻影城』とそこからデビューした作家、泡坂妻夫連城三紀彦にたどり着く。

 では、昭和40年代に新作として数多く書かれていた「本格ミステリ」は、なぜ僕の(あるいは当時のミステリ・マニアの)嗜好に合わなかったのか。たぶん、それは、それらの作品の読者層がサラリーマンだったからだ。サラリーマン向けに書かれていたからだ。

 森村誠一の初期作品は、不可能犯罪やトリックがてんこ盛りである。しかし、登場人物はほとんどはサラリーマン、それも世俗的な欲望に汲々としているサラリーマンである。これらの登場人物の心象は、中心的な読者層のものであると同時に、森村の作品を書く上でのモチベーションでもあった。それに、当時、高校生から大学生であった僕は、違和感を感じたのだ。その頃はもっと「浮世離れしたもの」が読みたかった。「浮世離れしたもの」の中にのみ、「真実」が感じられた。

 これは、個人的な差はあるとはいえ、時代的・世代的にあるていど共通するものだったと思う。

 現在、「社会派」と呼ばれているのは、それが謎解きの作品かどうかではなく、おそらく、こういう「世俗的なものにまみれたミステリ」なのだろう。あるいは、(実際に読んでいなくて)そういう香りのする、そういうイメージをもつ作品を指しているのだろう。(だから読みもしないで、これは「本格」ではない、などという方も出てくる)


 これに関連して、最近のミステリ・ファンは、「綾辻行人以前の」過去のミステリの歴史にほとんど興味がない、ということも話題にのぼった。

 これは、僕には単純なことに思える。そういう人は、「ミステリ・ファン」じゃないだけのことだ。作家のファン(それがたまたまミステリ作家だった)であり、「新本格ミステリ・ファン」なだけだ。ミステリ(全体の)ファンじゃない。

 アニメにも、「アニメ・ファン」と「ガンダム・ファン」があるようで、両者は似ているようだが、じつは違うもののファンだろう。

 いつの時代にも、ミステリ・ファンの数なんて、そうたくさんいるはずがないのである。