『首無の如き祟るもの』三津田信三

首無の如き祟るもの (ミステリー・リーグ)

首無の如き祟るもの (ミステリー・リーグ)


『首無の如き祟るもの』の読書会は楽しかった。やはり、こういうツッコミどころ満載の作品ほど、盛り上がる。

 わたし自身の感想は、本格ミステリとしてはほとんど評価できないが、驚きを中心とした、論理無用のスリラー作品としては、けっこう面白かった、というものだ。たしかに作者側の設定した謎は、うまく解かれているし、トリックだけ取り出せば面白い。

 しかし、これを「本格」の傑作という方々は、理解を超えている。今日の読書会の大勢の意見は、そのようなものだった。わたしをはじめとする昔からのミステリ・ファン(の一部)は、最近の「本格ミステリ」が何かがわからない。

 作品世界の設定が、まるで出来ていない、というのが、わたしが述べた最大の欠点だった。旧家の大事な儀式なのに、ごく少数の関係者しか出てこないのはどういうわけだ。旧家の嫁選びが、ほとんど長男の(つまり跡継ぎ本人の)好みで決まってしまうのは、いかがなものか。この村の人びとがどういう生活をしているのか、まるで分からないのは、小説世界としては、最低限のレベルに達していない。どうしても、そういう作品世界の設定のスカスカ感で、読んでいてイライラして仕方がないのである。しかし、参加者のひとりの「これはB級ホラー作品と思えば、面白い」という発言で、あ、そうか、と納得がいった。そうなんだよな。「13日の金曜日」のような「お約束ホラー」と思えば、腹もたたないし、最後のどんでん返しのためのどんでん返しも、ああ、死んだと思った殺人鬼が、ラストに出てくるアレね、と笑って許せるのかもしれない。

 だけど、「本格ミステリ」の傑作、と紹介されたら、そりゃあ、違うでしょう、と言うしかないよなあ。本日一番の否定派の方が言っていたように、「謎が解かれた時に、あまりにも矛盾点が多すぎる」。怪奇小説怪奇小説の論理が必要だであって、呪いや祟りは、無差別に起きるのではなく、ある論理にしたがって起きるものだろう。そのへんが、いい加減すぎる。守るべき対象が死んでしまったときに、どうしてあの方々は、こういう行動をとるのか。それは、トリックのための無理矢理の設定であり、少なくとも「本格ミステリ」が守らなくてはならない「論理の一貫性」から程遠いものであろう。

 だから、このトリックを使って、もう少し小説のうまい、本格ミステリが分かっている作家が書けば、佳作になったような気がする。惜しいね。