今さらながらの、「新本格ミステリ」について


 ミステリの歴史を見ると、多くの「バッシング」が見られる。とくに昭和30年代にはハードボイルドに対する風当たりが強かったようで、(正確にはハードボイルドではないものの)大藪春彦へのバッシングには手厳しいものが多かった。九鬼紫郎の著した『探偵小説百科』には、事典でありながらスピレーンや河野典生の項には、罵倒に近い説明が書かれている。こうしたものが、商業誌を含めて広く流布していた。だから、「新本格」だけが、歴史上とくに激しいバッシングを受けたわけではない。新しいジャンルが登場するときは、多かれ少なかれ、まずたたかれる。しかし、一見マニア受けするような作風に見える「新本格」ミステリに、わたしを含めた昔からのミステリマニアが「バッシング」をしたのは、そういった「新しいもの」への拒否反応だけだったとは思えない。

 「新本格」と呼ばれた作品を、当時のミステリマニアはどう評価したのだろう。もちろん「当時のミステリマニア」といっても千差万別であり、その評価がまったく同じということは、常識からいってもありえない。しかし当時ミステリマニアの末端にいたわたしが、「新本格」の作品群になじめなかった理由なら、述べることはできる。したがって、以下は、あくまでわたしの個人的感想であり、当時のマニアの一般的な評価ではない。今さらながらであることは、充分に承知したうえで、思い出話をしてみよう。


 とはいえ、、実のところ、「新本格」に強い興味がなかったので、リアルタイムで多くの作品を読んでいないうえ*1、すでに20年近く経っているため、記憶のなかに現在の印象や評価が混じることは、致し方ない。

 「新本格」ミステリになじめない(くだらない/つまらない)と感じる最大のものは、言い古されているが「リアリティがない」「人間が描けてない」ということであった。もう、この評価は今では、ギャグとしか感じられないが、20年前にはもう少し有効な批判だったと思う。だから、作家たちもそうした評価に過剰ともいえる反応してきたのだろう。じつはミステリ(探偵小説・推理小説)、とくに「本格」と呼ばれるジャンルは、ずいぶん前から「リアリティがない」「人間が描けてない」と言われ続けてきた。そして、そういうジャンルのマニアであったわたしは、黄金時代のミステリにも、乱歩・正史の作品にも、「リアリティがない」「人間が描けてない」と感じたことはなかった。人間が描けているとまではいわないまでも、小説が楽しめる程度には、個々の登場人物に思い入れができたし、娯楽小説はそれで充分だと思っていた。それがなぜ、「新本格」には違和感を感じてしまうのだろうか。

 「新本格」と「本格ミステリ」は結局同じもの、と言う人もいるが、わたしにとっては、かなり違う。綾辻行人以来の「新本格」と呼ばれた多くの作品は、それまでのミステリと違い、われわれの住む現実ではない「架空世界」を扱い、その「架空世界」のありようを問題(テーマ)にしているように感じられる。「新本格」のすばらしさを語る時、「いままでの世界観が崩れるような快感」という言い方がされるが、これは「新本格」以前の多くの本格ミステリにはあまり見られなかったものである。そして、その「架空世界」の中で動く人間たちは、あくまで役割を演じる役者のようである。いかに演技が上手かろうが(総じて下手に感じられたけど)、結局、役者に過ぎないと感じてしまうのである。それが「リアリティがない」「人間が描けてない」という評価となる。それまでの「本格ミステリ」には、そういう感じはもたなかった。

 それと、「いまさら」感があった。孤島や館にグループ(おもに同世代の、しかもミステリ・マニア)が集まって、次々と殺人が起きるというプロットは、1980年代という現代で語られると、非常に馬鹿馬鹿しく感じられた。あまりにも無邪気すぎるのである。お子様が遊園地で遊んでいるのを、眼を細めて眺めるような心の広さを、同時のわたしは持ち合わせていなかった。そうした情況設定を、無理なく現代の生活空間の中で活かすようなひねりが欲しかった。また、登場人物の行動や思考方法にも共感できなかった。『月光ゲーム』の犯人の動機はいかがなものか。あんなことで何人も人を殺しておいて、しかも、関係者は真相を警察にも遺族にも隠したままなのである。わたしは、そういう人たちとは友達になりたくない。

 さらに、本格ミステリとしての出来が悪いと思った。例えば『十角館の殺人』のかなめの部分は、本格というよりは、ショッカーの驚かせ方だろう。後ろから「ワッ!」とやって驚かすようなものである。仲間内でミステリ作家のあだ名で呼び合う不自然さから、ここにたぶん何かがあるな、と思いつつ読んだ。それでも犯人の正体を明かされてびっくりしたのは確かである。しかし、正体を明かされた後、よくよく考えると腑に落ちない。ミステリ愛好会で、彼があんな風に呼ばれることがあるだろうか。それがミスリードであり、伏線もきちんと張られている、というのは充分にわかっている。しかし、それでも不自然である。不自然だから驚いてしまうのである。たぶん、『十角館の殺人』以降にミステリ・ファンになった方たちは、わたしが単なるいいがかりをつけているとしか思えないだろう。わたしが理想とする本格ミステリは、それまで不思議だと思っていたことが、謎が解かれると(ある考えかたを導入すると)、自然なことだったと思えるタイプの作品なのだ。意外性は、最重要要素ではない。驚くだけなら、ショッカーのほうが驚き度は大きい。

 『すべてがFになる』でいえば、犯人の計画のタイムスパンがあまりに長すぎて、関係者がちょっとでも犯人の計画外の行動をとると、「すべてがアワになる」点が不満だった。そんなに都合よく、みんな動いてくれないよ、と思う。それを、天才だから、で片づけられると、それは本格じゃないだろう、と言いたくなるのである。あるいは、それは古いタイプの本格であって、現代の本格は、そういうことをきちんと処理してほしい、と思ってしまう。

 『消失!』を読みながらいらだったのは、三つの事件が関連性をもって見えるのは、読者だけであって、探偵にはそうは見えないはずだ、という部分であった。少なくとも三つ目の事件は、探偵の視点からは、最初の二つとの関連性を伺わせる要素はない。それがなぜか連続事件として扱われることに違和感をもち続けたから、最後になって真相をあかされても、後味が悪いだけである。もっともこの作品の中心アイディアには感心したから、叙述トリック的なもの(「バカミス」と呼ばれる部分)をああいう風に使わず、三つの事件の関連性をうまく処理したら、もう少し点がよくなっていたかもしれない。

 つまり、読みながらこちらが感じる違和感、探偵が指摘する謎ではなく、登場人物の行動や思考方法に感じる謎を放置したまま物語が進む。それが非常に苛立ちを生み、解決篇に達した頃には、苛立ちが怒りに変わってしまうのである。

 結局、多くの「新本格」は、ミステリではかった、というしかないだろう。それまでのミステリとは違う価値観で書かれた小説だったのである。それをミステリ(本格ミステリ)だと思っていたから腹が立ったのかもしれない。また、それを「本格ミステリ」だと言い、誉めそやす人たちに、怒りが向いたのだろう。少なくとも、わたしはそうだった。こうして分析してみると、古い人間であるわたしが「新しいもの」への拒否反応を示しただけだといわれても、今は反論がむずかしい。

*1:こう書くと、「本格」マニアじゃない、と言われそうだが、少なくとも黄金時代以来の欧米本格ミステリはおおむね好きし、自分では本格ミステリのファンだと思っている。