『探偵小説と多元文化社会』別府恵子編/英宝社1999年という本を読みかけ。
古い本だけど、19世紀のイギリスとアメリカの探偵小説の発生と発展がテーマになっている文が載っていたので、読んでみることにした。
帯に
「なぜ、探偵小説が書かれ、また読まれるのか。本書は「フォーミュラ小説」といわれる探偵小説の醍醐味を、古典的探偵小説の父祖ポーから現代のポール・オースター、サラ・パレツキーの作品に探る野心的試み」
とある。
編者の別府恵子によると、神戸女学院大学研究所の助成金をもらっての共同研究の成果らしい。
アカデミズムによる大衆文学・文化の研究は、もうひさしい前から一般的なのだろうが、1999年という年を考慮しても、これはちょっとレベルが低いような気がする。
いくつかの面白い指摘もある。しかし、たとえば「ハードボイルド探偵小説の真理の研究」(別府恵子)と題した論考のなかで、
いわゆるハードボイルド探偵小説の起こりは、一九二〇−三〇年代に犯罪小説を掲載させていたパルプ雑誌――『ブラック・マスク』や『スマート・セット』など――から、ダシール・ハメット(1894-1961)が、「犯罪実録」を小説の題材に取り上げたころに端を発する。
といった文章がある。
『スマート・セット』にハメットが私立探偵時代の経験を読み物風に書いていたことは事実だが、これが「ハードボイルド探偵小説の起こり」というのは異論もあるだろう。なにより『スマート・セット』はパルプ雑誌ではない。荒俣宏の『パルプマガジン 娯楽小説の殿堂』から引用すると「タイトルのとおり「賢明な紳士」向けに出されたこの雑誌は(中略)ニューヨークのスノッブすなわち自称インテリに向けて編集された」のである。掲載された小説も、都会派のO・ヘンリーやF・スコット・ジェラルドなど。編集にはヴァン・ダインが美術評論家ハンティントン・ライトとして加わっている。たぶん、『スマート・セット』を出していた中心メンバーが『ブラック・マスク』を発刊することからきた誤解だと思う。
この「あたらしい」探偵小説は、すでに一九世紀後半から世紀末にかけて、多くのパルプ誌とくに『ブラック・マスク』誌に掲載されたダイムノヴェルから生れたものとされている。
という文章もある。
かりにダイムノヴェルを「低レベルの小説」という一般語と解釈してとしても、普通はは1905年の「アゴーシー」がパルプマガジンの発祥とされているから、これも誤解をまねく記述だろう。
ほかにも「チャンドラーのエッセイ「簡単な殺人方法」(一九〇〇)」やら「ハンフリー・ボガード」やら、気になる誤植(?)が多い。
アカデミズムの世界は、記述内容がこんなにヌルくていいのだろうか? 探偵小説研究を見くびっているのではないのか?
それと、研究対象の作品のタイトルである。ハメットの『痩せた男』、ケメルマンの『ラビが家出した木曜日』、ヒラーマンの『不吉な風』などは、いかがなものか。きわめつきはサラ・パレツキーである。処女作『インデムニティ・オンリー』、第2作『デッドロック』、第3作『キリング・オーダーズ』と、以下すべてカタナカで記述されるのだが、これが『サマータイム・ブルース』『レイクサイド・ストーリー』『センチメンタル・シカゴ』についての論考だというのは、頭の中で翻訳しきれない。論者は邦訳題名がよほど嫌いだったのか?
この本に限らず、アカデミズム系のものには、邦訳題名を研究者が独自につける傾向がある。邦訳の研究書でも訳者がかってに邦訳題名をつける。
たしかに、彼らは原書で作品を読んで研究しているのだろう。しかし、翻訳書があるものは、その題名を踏襲してくれないと、読んでるほうにはピンとこないのである。海外文学を日本語で研究するのだから、翻訳書への目配りは必須だと思うのだが。