H・C・ベイリーとハードボイルド


ウィキペディアの「ハードボイルド」の項目に記載されていた

「ハードボイルド的推理小説の先駆けといえるのはイギリスの作家H・C・ベイリーのレジナルド・フォーチュンシリーズであるといえる。」

という説がどこから来たのか、疑問であったが、それがわかった。たぶん、創元推理文庫『フォーチュン氏の事件簿』の戸川安宣の解説にある次の文章が典拠だと思う。

「黄色いなめくじ」や「聖なる泉」などは、(中略)読者の中にはロス・マクドナルドの作品を思い浮かべる人もいるかもしれない。いかにもマクドナルドの描きそうな小説世界が展開されているのだ。
 実際、フォーチュン氏譚は、ハードボイルド作品に相通じるものをもっているのではないか。もちろん、ハメット、チャンドラーとは時代が違い、国が違う。この差は、特にハードボイルドを論ずる場合、大きい問題である。しかし、ベイリーの小説作法にはハードボイルド作家に通じる姿勢があるように思えるのだ。
 前に引いた二つの短篇など、時代や国の違いを度外視して、そしてフォーチュン氏の一人称で綴ったなら、どういう作品になっただろう――と考えるのは、無茶かもしれない。だが、人間の観察者フォーチュン氏の探偵法には、ハードボイルド派の探偵たちと酷似する点が確かにある。

 いまのところ、H・C・ベイリーとハードボイルドを関連付けた文章は、これしか見つからない。

 しかし、この解説を読んで、フォーチュン氏ものを「ハードボイルド的推理小説の先駆け」と勘違いするかなあ。戸川氏も「無茶かもしれない」と断っているのに。もっとはっきりと「ハードボイルド的推理小説はH・C・ベイリーにはじまる」と論じた文章がどこかにあるのだろうか。

 と思って、もう一度、ウィキペディアをのぞいたら、あらら、いつの間にかベイリーの件は削除されているではないか。なんてこった。誰かがおかしいと思って消したんだろうなあ。

 ウィキペディアは項目によっては随分と参考になる場合もあるが、いいかげんに書かれたものも多い、と割り切って使うしかないと、わかっちゃいるんだけどね。でも、極端にいえば、自分だけの奇説を書いても、通用するってことでもある。多くの人の眼にふれる項目は、それなりに修正されていくのだろうが、めったに参照されない項目は、あやういよなあ。そういう項目は、他に参照できるデータが少ないだけに、よけい、「たまたまそのコトを知りたい時」に、そのまま流用される可能性が多いだろう。

 書籍の場合は、それなりに「権威」あるリファレンスと、そうでないリファレンスは区別できるが、ネットの場合は定評あるものがどれなのか、よくわからない。まあ、とりあえず、ネットの知識は、保留つきで使用するしかない、ということか。

 ところで、話はちょっともどるのだが、いつのころからか、「フォーチュン氏ものはハードボイルド的推理小説の先駆け」的な、いわゆる奇説・珍説が、まともな説として通用してしまっているような気がする。(ミステリの世界だけのことで話しているが)例えば瀬戸川猛資の『夢想の研究』や『夜明けの睡魔』などで展開されるものは、それが「奇想」だから面白いので、それをマトモにうけとってはいかんだろう、ということ。

 例えば、ロス・マクドナルドヒラリー・ウォー本格ミステリとしてとらえる、というような説だが、もちろん、そういう考え方もできるし、そういう見方をするとこれまで気づかなかったミステリの流れを把握できるのだが、それはあくまでも「正統なミステリ史」に対峙させる面白さである。

 もうここからはオジサンの「若いもの」に対する愚痴になってしまうのだが、いわゆる「新本格」(ってのも、もう古いんだろうけどね)の登場人物って、みんなあまりにも「疑うことをしらない」というか「無垢すぎる」というか、それが気になって仕方がない。はなっから名探偵の推理をすぐに信じ込んでしまい、疑問をださない。「新本格」以前からのミステリ読みには、どこぞのタウンミーティングみたいな「名探偵の推理のためにつくられたやらせ質問」ばかりを、登場人物たちが問題にしているように受け取れるのである。

 そりゃあ、ミステリの世界は「お約束」の世界であるが、それは名探偵と登場人物が「推理ごっこ」をやるような「お約束の推理」を展開する、という意味ではないだろうに。

 ミステリを読むときも、解説を読むときも、疑いの眼差しをもちながら読まないのかなあ。