本質と辺縁

(以下の文章では、敬称はすべて略しています。前日の文章は、市川尚吾氏の問いかけに答える形をとっていたため、「氏」をつけさせて頂きましたが、今回は特定の相手に向けた文章ではないため、敬称はつけておりません。呼び捨てにするようで、きつい感じを受ける方もいるかもしれませんが、ぼくなりの敬意の表しかたです。)

捉えがたい概念の本質をあえて捉えようとするとき、ひとつの方法として周辺部から責めるというやり方がある。「緑」という色を捉えようとした時、明らかに黄色であるものと、明らかに青色であるものを示し、これは青色だよなあ、これも黄色だよ、でもこの辺から緑といえなくもないよねえ、と周辺部を見極めつつ、「緑」というものの概念を捉えようとする手法である。


長谷部史親は『ミステリの辺境を歩く』(2002/アーツ アンド クラフツ)で、この著書における考察の目的(の一端)をこう書いている。

どうにもこうにもミステリらしからぬ作品を、あえてミステリとしてとらえようとするうちに、何かが視野に入ってくるのではないかとの期待も捨て去れない。すなわちミステリの周縁地域を掘り返せば、いつしか中枢部分につながる細い道筋を見つけ出す幸運に遭遇する可能性だって否定できないのである。

こうした試みのため、ぼくには『ミステリの辺境を歩く』は大変刺激的な本であった。それ以来、ジャンルの辺縁部を論じることは、ジャンルの本質を見極めるためのひとつの重要な手段であると感じている。だから、市川尚吾の「本格ミステリの軒先で」を、ぼくは本格ミステリの本質を見極める試みとして読んだ。ぼくにとっては、探偵小説や本格ミステリの「定義(説明)」は、ジャンルの本質を見極めるために必要なのであって、「本格ミステリのベスト本や文学賞の投票時」などは想定していない。それは、定義の必要性ではなく、定義をどう運用するかの問題だろう。探偵小説(本格ミステリ)とは何か、というテーマは、探偵小説(本格ミステリ)を愛するすべての人にとって、人間とは何か、愛とは何か、に等しいものであるはずだ。もちろん、気恥ずかしくて、愛しているなんてとても言えない人がほとんどだろうが。

市川尚吾とは言葉の使い方が違うことを承知の上で、あえて言えば、「「本格ミステリ」を定義するということは、(中略)すべての小説を「本格ミステリ」と「そうでないもの」に二分するということ」*1ではなく、「真っ白から真っ黒までのグラデーションを描いている色見本の帯」*2の「黒」とは何かを示すことである。*3何によるクラデーションなのかを示しさえすれば、そのどこに線を引くかは、各人にまかせればよい。「定義」は厳密に、運用は緩やかに、ということでぼくはかまわないと思う。「黒」が何かが各人で違う、というのであれば、同一ジャンルという概念は崩壊するしかない。

ということで、ぼくなりの「黒」をこれから考えてみる。

市川尚吾は当ブログ9月16日付記事のコメントにおいて、次のような文章を定義文の例としてあげた。

  • 探偵小説とは「探偵」という単語が文中に出てくる小説である。

市川は「誰の実感にも沿っていない定義なので支持されない」と述べているが、実をいうとぼくは、この定義もありかな、と思ったのである。しかし、「探偵」という言葉が出ない探偵小説もあるよな、とも。例えばポーの「モルグ街の殺人」には「探偵」という単語はでてこないはずだ。なにせ、まだ「探偵」(ディテクティヴ)がいなかったのだから。したがって、この定義文をこのように書き換えたらどうだろう。

  • 探偵小説とは「探偵」が作中に出てくる小説である。

ここで言う「探偵」は、職業としての探偵(刑事)だけでなく、ひろく探偵行為を行なう人物を指す。しかし、「探偵」が出てきても、「探偵」が恋愛をするだけの小説は、やはり探偵小説とは言えないだろう。そこで、定義文を次のように変えてみる。

  • 探偵小説とは「探偵」が作中で「探偵行為」を行なう小説である。

この定義文では、「探偵行為」は何を指すのかが明確でないとも言える。「探偵行為」を明確に文章化しないと、あいまいであろう。また、「探偵」の役割は「探偵行為」をすることなのだから、「探偵行為」さえ明確に文章化できれば、「探偵」という言葉は不必要である。ということで、定義文から余分なものを抜いて、もっと厳密に書くと、こうなる。

  • 探偵小説とは、秘密が解かれて行く小説である。

だけど、秘密が簡単に分かったら、探偵行為の必要性はほとんどなくなるし、秘密の提示と同時に解決されても、やっぱり探偵の出番はない。秘密が難解だからこそ、探偵がそれをさぐるのだろう。それに、作中に探偵行為があったとしても、それがほんの一部であれば、やはり探偵小説とはいいがたい。また、その解決は多少でも論理的でなくてはダメだろう。したがって、さらに明確に書こうとすると、こうなる。

  • 探偵小説とは、難解な秘密が、多かれ少なかれ論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である。

そう、これが江戸川乱歩が最初に考えた探偵小説の定義である。*4市川の提示した定義文に、より厳密にしようと言葉を付け足していった結果が、こうなった。言葉を付け足したために、曖昧になってしまっただろうか。

ところで、この定義を『幻影城』に収めるにあたり、乱歩は「主として犯罪に関する」という言葉を加えた。その理由をこう述べている。

原則は上記の通り(引用者注/何らかの謎さえあればよい)だが、古来、犯罪を取扱わない探偵小説というものは殆んど見当たらないと云ってもよいのだから、定義にもこの事を書入れておいた方が実情にかなうようである。*5

市川が「本格ミステリの軒先で」で言うように、「主として犯罪に関する」が「定義」としては不要だと思うのなら、削っても、乱歩は反対しなかっただろう。より本質的なのは、謎であって、犯罪ではない、と解説している。しかし、ぼくは「主として犯罪に関する」という十文字は、探偵小説の本質にとって重要だと考える。探偵小説と犯罪は、密接なつながりがあると思うからだ。

さて、こうして「探偵小説の定義」はできた。ぼくはこれに当てはまるものが探偵小説であり、そうでないものは探偵小説ではない、と考えている。主は「謎と解決(の経路)」であり、「主として犯罪に関る」が副だ。この定義文を当てはめれば、あらゆる小説が探偵小説かどうかは判別がつく。(当り前だが、ぼくにとっては、ということだが)「難解」「論理的」「主眼」などは、個別に検討すればよい。

したがって、ぼくにとっては、「モルグ街の殺人」も『ルコック探偵』も『螺旋階段』も『Xの悲劇』も『血の収穫』も『さらば愛しき女よ』も87分署シリーズもディック・フランシスの競馬シリーズも、すべて探偵小説である。「二銭銅貨」も『獄門島』も『黒いトランク』も『砂の器』も『そして夜は甦る』も、すべて探偵小説である。もちろん横山秀夫の作品は、明確に探偵小説といえる。つまり、すべて同一ジャンルの小説だと判断する。しかし、オチのある都会小説や、怪奇小説や、古い館が出てくるものの論理的な解決のないゴシック小説などは、探偵小説とは言えない。ところが、戦前の日本では、こうしたものも「探偵小説」の名前で呼ばれていた。甲賀三郎は、それがマズイと判断し、本来の探偵小説を「本格探偵小説」、それ以外のものを「変格探偵小説」と命名した。探偵小説と、それ以外を、弁別したのである。したがって、甲賀命名によるならば、ぼくが上で並べた小説群はすべて、「本格探偵小説」ということになる。ハードボイルド(私立探偵小説)も警察小説も社会派推理小説も、「本格探偵小説」なのである。なぜなら、「主として犯罪に関る謎とその解決の経路を主眼とする物語」だからだ。

「本格探偵小説」=「本格ミステリ」とするならば、これらはすべて、本格ミステリとなる。しかし、それでは、ぼくは納得できても、おそらく探偵小説研究会の方々は納得できまい。本格ミステリ作家クラブの方々も納得できまい。とくに本格ミステリ作家クラブは、ミステリの枠組のなかに(あるいはミステリの枠組をはみ出して?)、もうひとつ「本格ミステリ」という枠を設けたのだから。

では、その「本格ミステリ」という概念は何なのよ。コンセンサスを見出せない文芸ジャンルって、何なのよ。え、どうなのよ。と、詰め寄ったら、ご迷惑でしょうか?

*1:本格ミステリの軒先で」p15

*2:同p17

*3:「白」はそれがない状態であるから、「黒」だけを示せばいい。

*4:『鬼の言葉』所収。ただし読点を適当に入れている。

*5:「探偵小説の定義と類別」/『幻影城』所収