ロマン・フィユトン(4)


■ロマン・フィユトン/デュマとポーの仏訳
    ――フランス 1840年代〜1860年

フレイドン・ホヴェイダの『推理小説の歴史はアルキメデスに始まる』は、フランス大衆小説について、こう語っている。

謎解き小説だけを推理小説ときめてかかる必要もないだろう。探偵と犯人の一騎討も、推理的な捜査術と同様に、推理小説の分野に属するものと考えてしかるべきである。バルザックも自ら認めているように、『浮かれ女盛衰記』の真の主題は、警官と犯人との一騎討にある。(p27)


 「一騎討」という主題は、フランスの大衆小説において顕著である。ここに決闘好きな民族性を見ることもできるだろう。それが「探偵と犯人の一騎討」という変奏となって、「探偵小説」の流れのひとつを形作っていることは、松村喜雄がフランス・ミステリの歴史について語った『怪盗対名探偵』という書名を待つまでもない。

 しかし、『推理小説の源流』で、小倉孝誠はこう述べる。

犯罪を語れば、それで推理小説になるわけではない。犯罪が起こらなければ犯人を探すという行為もありえないから、犯罪は推理小説を始動する必要条件であるが、十分条件ではない。十九世紀前半のフランスの作家たちは都市を舞台にした犯罪を物語ったが、彼らの作品は厳密な意味での推理小説にまだなりえていない。ただ、そうしたなかで、小説の断片的なエピソードとして、推理小説的な構造をそなえたページが書かれている例はある。

 そして、その例としてバルザックの『コルネリュス卿』(1831)を挙げる。15世紀を舞台にしたこの歴史小説のエピソードのひとつに、王の会計士を勤めていたコルネリュス卿の元に弟子入りする若者が、次々と盗みの罪で処刑される事件がある。ルイ十一世がみずから調査に乗り出し、じつは卿は夢遊病者で、無意識のままに自分の財宝を盗み出していたことが判明する。歴史上の人物を探偵役にした歴史ミステリの嚆矢として読むことも可能な作品である。

 また、セイヤーズによれば、デュマは『ブラジュロンヌ子爵』(1846-1851連載)の中で「純粋科学的推理の一節を挿入した」という。この物語は《ダルタニャン物語》の第三部にあたり、邦訳では『鉄仮面』*1を含む6巻から11巻がそれにあたる。

この一節は『三銃士』三部作のどの部分を見てもこれと同類を発見することはできず、デュマが抱いていた現実の犯罪に対する強い関心の直接的産物らしく思われるのである。(「犯罪オムニバス」序文)

 その「現実の犯罪に対する強い関心」の証左として、彼が編んだ『著名犯罪集』(1839- )を挙げている。S・S・ヴァン・ダインはこの作品を、ポーのあと15年ほどの間に出版された「おそらく最も注目にあたいする」作品であると、「傑作探偵小説」の序文で述べているし、シモンズは『ブラッディ・マーダー』でダルタニャンの推理は『ザディーグ』における馬と犬の推理を髣髴とさせるし、「デュマはまたメモ帖に書きつけた筆跡が、そのページを破りとっても、下のページに残っている可能性があると指摘した最初の作家である」としている。

 そのデュマが1854年から1857年に新聞連載した『パリのモヒカン族』には、寄宿舎から誘拐された娘の捜査にあたるジャッカル警部が登場する。かれは相棒のサルヴァドールと共に、現場に残された犯罪の痕跡を分析し、足跡を観察し、推理を展開する。

足跡は同じ長さで同じ幅の靴によってつけられたものだが、靴底の鋲の配列が異なっているから、二人の男の足跡だ。しかも、靴底の左側が右側よりも踵が磨り減っているところからみて、そのうちの一人は右足が跛行している。さらに三人目は、馬に乗りつける習慣をもつ上流階級の人間であろう。他の二人に比べると足の形が華奢で上品であり、乗馬靴につけた拍車による痕跡が地面に残されているから……。(『推理小説の源流』p55)

 さらに密室の謎もでてくる。ジャッカル警部は糸を使って扉の鍵をかける方法を紹介する。また、彼は「女を探せ(シェルシェ・ラ・ファム)」という台詞を使った最初の探偵だという。*2

些細な物体や痕跡にもとづいて推理し、誘拐事件の全容を解明する。そうした手がかりや、それを読み解く方法は、まさしく後のシャーロック・ホームズをはじめとする推理小説のヒーローたちを予告するものだ。違いは、第一にジャッカルが私立探偵ではなく、警察機構に属する人間だということ、第二に、ホームズであればすべての謎を一人で解決し、途中のプロセスについては何も語らず、犯人を捕らえてから犯罪の全容を暴くのに対し、ジャッカルはそのつど自分の発見を披露するところである。デュマの主人公にはホームズのような効果をねらった演出趣味はなく、最後までサスペンスを持続させようとする意図もない。しかしそうした欠落にもかかわらあず、ジャッカルは推理小説史上における先駆的な存在として無視できないだろう。(『推理小説の源流』p58)

 ディケンズバケット警部は1852年から連載が始まった『荒涼館』に登場する。英仏の職業探偵が「探偵小説」的な活躍をはじめるのは、ほぼ時を同じくしている。

 バルザックやシューの犯罪と犯罪者を描いた作品が書かれた1840年代と、この『パリのモヒカン族』が書かれた1850年代の間に、なにがあったのか。小倉孝誠によれば、

この十年はフランスにおける犯罪小説や推理小説の発達史において、エドガー・ポーの物語が翻訳され、注釈されたという意味で決定的な十年だった。(『推理小説の源流』p59)

 同書によれば、フランスにおけるポーの受容史は、以下のようになる。

  • 1844-12  「ウィリアム・ウィルソン」の翻案(ポーの名はなし)/《コティディエンヌ》紙に掲載
  • 1845-11  「黄金虫」の翻訳/《英国評論》に掲載
  • 1846-06  「モルグ街の殺人」に基づく翻案(ポーの名はなし)/《コティディエンヌ》紙に掲載
  • 1846-10  「モルグ街の殺人」の翻訳(ポーの名はなし?)/《コメルス》紙に掲載/翻訳者はエミール=ドーラン・フォルグ
  • 1846-10  《両世界評論》誌にポーの短編を論じたフォルグの評論が掲載
  • 1847-01  「黒猫」の翻訳/《平和的民主主義》誌に掲載/この翻訳でボードレールがポーに熱狂

 ボードレールによるポーの「モルグ街の殺人」や「盗まれた手紙」の翻訳は1855年になってからである。それ以前にフォルグの評論が、ジャッカル警部の登場に影響を与えているというのが、小倉説である。

フォルグはポーの推理小説の特質をよく把握している。『モルグ街の殺人』の冒頭、夜のパリを散歩しながらデュパンが語り手の「ぼく」の思考の流れをすばりと見抜く有名なエピソードに触れて、彼の「驚くべき洞察力」に賛嘆する。(中略)
 そうしたデュパンの洞察がもっともあざやかに示されているのが『マリー・ロジェの謎』だと、フォルグは考える。(中略)
 フォルグは、同じく犯罪をテーマにするとはいえ、ポーの作品とフランスの新聞小説のあいだに決定的な差異があることをはっきり認識していたように思われる。

 ポーの短編の主人公のように、ジャッカル警部も手がかりを読込んで犯罪の全容を推理しようとした。しかし、ジャッカル警部の風貌は

恰もさなだ虫のように恐ろしい細長い身体で、足はまたとても短い。頭は人間と言うよりも四足の猛獣に近く、(中略)耳はひどく尖って、毛が生えていて、頭の上の方につき、先ず山猫と言う形。眼の廻りは、昼は青味がかって夜は黄色く見え、眼は狼そっくり、瞳孔は恰度猫のそれのように、縦一文字形で、光りによって伸縮自在で、(後略)(甲賀三郎『犯罪・探偵・人生』より)

 と、とても好感のもてるものではない。これは、英国の小説にあらわれた探偵=刑事たちの風貌と比べても、かなり印象が悪い。英国で1850年代から1860年代にかけて、「回想録」というスタイルを借りて、ある程度好感のもてる刑事たちが多数登場していたことを思うと、この「四足の猛獣に近」い警部は、フランスの民衆の警察官への感情を表しているといえるだろうか。ジャン・ヴァルジャンを執拗に追いかけるジャベール警部が登場する『レ・ミゼラブル』は1862年の作品である。

 好感の持てる職業探偵=刑事は1866年、ルコック探偵の登場を待たなくてはならない。作者はもちろん、世界初の長篇探偵小説の作者、エミール・ガボリオである。

*1:黒岩涙香の『鉄仮面』の原作ではない。涙香作品の原作は、もう少し後のフランス大衆新聞小説作家デュ・ボアゴベの作品。

*2:甲賀三郎の『犯罪・探偵・人生』で紹介されているこの作品の英訳者による解説から。これは松村喜雄の『怪盗対名探偵』にも引用されている。