ミステリの分類(9)/本格ミステリとは何か・その2――原初のミステリ


 「本格」という用語は、探偵小説とそれ以外の「探偵小説もどき」を区別するために生まれた。しかし、時代と共に本来の意味を逸脱し、あたかも探偵小説の一部の作風を指すかのように使われだしたのも、また事実である。今回は、それについて考察してみたい。


 前回引用した、九鬼紫郎『探偵小説百科』(1975)にある「探偵小説の分類」のように、乱歩の「探偵小説の定義と類別」のトリック型を「本格」とする意見がある。また二階堂黎人のように、推理で謎を解く物語を「本格」とし、捜査で謎を解く物語は非「本格」とする考えもある。「本格」=「パズル・ストーリイ」というような言い方は、ゲーム派を「本格」としたものものだろう。最近では、伝統的な「本格」感とは別に、反リアルな作風を「本格」とするような意見も見受けられるようだ。

 ゲーム派を「本格」とすると、チェスタトンは「本格」ではないことになる。プロット派や捜査の物語が「本格」ではないのなら、クロフツは「本格」ではない。反リアルな作風を「本格」とするなら、鮎川哲也は「本格」ではない。伝統的に同一ジャンルと思われていた作品群が、分離してしまうことになる。しかも、上記のような「本格」のくくりでは、世界的に見ると、現在「本格」は作例がきわめて乏しい。本質的な作風がなくなってしまったジャンル、などというものが、ありうるのだろうか。

 そこで、前回述べたように、広い意味では「探偵小説」そのものを「本格」といい、狭義には、その分野の本質を明確に現わした作風を「本格」とすればよい、というのが、ぼくの意見だった。広義の本格ミステリ(=探偵小説、およびその流れをくむ作品すべて)の定義としては、乱歩の「探偵小説の定義」が妥当だろうし、狭義の本格ミステリに含める作風は、人それぞれでかまわない(定義しようがない=コンセンサスを得ようがない)。

 しかし、歴史的に「本格」という言葉の使われ方を見ると、もうひとつの考え方ができる。

 英語で Pure Detective Story という言葉があるという。海外の文献でこの言葉を実際に見たことはないのだが、乱歩の「二つの比較論/探偵小説の範囲」(『幻影城』所収)によれば、EQMMの目次で、毎号の収録作を作風によって区分けする時に使われていたとのことだ。このとき、乱歩が挙げた分類名には、次のようなものがある。()内は、乱歩自身の注だ。(一部、省略した)

  • 純探偵小説(ピューアという字を使っている。こんな区分のしかたは、十数年前までは、英米には全くなかったことである。日本の本格探偵小説に当る。謎解き論理の智的遊戯に興味の中心を置く、ポー、ドイル以下クィーン、カー、新しいところではイネス、ブレイクに至るまでの正系探偵小説である)
  • ハードボイルド派(純アメリカ式探偵小説、ハメットを始祖とし、チャンドラーを後継者とする。タフな悪漢と、タフな探偵、心理や論理を弄ばないで、素早い勘と行動によて描かれる探偵小説。一名、行動派探偵小説という))
  • 心理スリル派(この派は多くの場合同時にサスペンス派でもある。(中略)イギリスのフランシス・アイルズを創始者とし、ハル、ホールディング、アメリカのウールリッチなど多くの優れた作家が出ている。(後略))

 さて、ここから分かることは、Pure Detective Story は探偵小説とそれ以外の、例えばスリラーを分けるために出てきた言葉ではない、ということである。「十数年前までは、英米には全くなかった」のだから、十九世紀からの長い歴史をもつスリラーと探偵小説を区分するために別の言葉が必要ならば、もっと早くから、なんらかの言葉が出来ていたはずである。しかし、実際はそうしたジャンル名はなかったのだから、多くの人が「探偵小説」(Detective Story)という言葉だけで充分だと思っていたことになる。ところが、「ハードボイルド派」と「心理スリル派」が生じたために、それと区分するために、「純探偵小説」なる言葉が必要になった。つまり、探偵小説の「内部」に、分裂が起こったのである。

 1920年代のアメリカで生まれたハードボイルド派と、1930年代のイギリスで始まった心理サスペンス派*1は、探偵小説の「中」に生じた、はじめての明確な別種だった。どちらも探偵小説を母体として生まれ、しかも単独作家の作風ではなく、複数の作家が参加する流派、新しい系譜となった。内部に別種が生じたために、「探偵小説」というだけではそのものを明確に指し示すことが出来なくなったから、新しい言葉が必要になったのである。それが「Pure」だった。

 ところで、池田清彦が『分類という思想』(1992)[新潮選書]のなかで、構造主義分類学による生物進化を説明した箇所に、次のような文章がある。

ある構造によって記述できる生物群の総体は、時空間に離散的に存在しているわけだから、進化はそのうちの一部が全く異なる構造として記述できる別の生物に変化する、といった形で起こると思われる。この変化には基本的に二種類あり、一つは規則が別の規則に変わること、他の一つは旧い規則の上に新しい規則が付加すること。私は前者を構造変化と呼び、後者を構造付加と呼んでいる。様々な生物に見られる形態の階層性は後者の結果出現してくるものと思われる。従って、新構造を付加された分類群は、もとの分類群から分岐して生成してくるが、この時、もとの分類群と新しい分類群は等価群として分岐するわけではない。新しい分類群は旧い分類群の中から、それよりも高次の階層を持つ科学的実在として出現してくるのである。
 その結果、残された旧い分類群は、新しい分類群が出現する以前に自身をコードしていた構造のみによっては自身を定義することができなくなってしまい、〔もとの構造によって定義された生物群〕から、〔付加された新構造によって定義された生物群〕を除いた〔残りの生物群〕といったネガティブな形でしか定義することができなくなる。簡単に言えば、構造付加が生ずるような進化は、その結果として不可避的に非A群を作り出すのである。(p191-192)

 具体的に、脊椎動物の進化史の最終部分を見てみよう。硬骨魚類の一部が陸上生活に適応するために体制変化を起こし、両生類が出現した。このとき、硬骨魚類の体の作りに基づき、それに諸特徴を付加する形で、進化した。構造を付加されたものが両生類となり、基の構造のまま変化しなかったものが硬骨魚類として残った。両生類の一部から、爬虫類が発生したときも同じである。両生類の特徴に、いくつかの構造付加が生じて、爬虫類として区分されるようになったのだ。さらに爬虫類からは、鳥類と哺乳類が発生した。(下図/『分類という思想』[新潮選書]p205の一部を引用)


 つまり、前段階の動物群の一部に新構造が定立して、新しい分類群が生じ、残りは非A群としてとり残された(原型を保った)のである。爬虫類は両生類から発生したときは、両生類に構造付加された明示的な類だったのだが、哺乳類と鳥類が発生した時点で、「羊膜類」から哺乳類と鳥類を除いた残り、として定義されることになった。

 さて、この考えかたを探偵小説に応用してみるとどうなるか。

 犯罪文学の一部に、探偵小説が発生した。この時点では、探偵小説はそれ以外の名前を持たなくとも、ひとつのジャンルとして確立していた。しかし、1920年代から30年代に、探偵小説の内部に、別種が発生した。それまでの探偵小説の諸特徴に、いくつかの特徴(文体・心理描写・性格設定)を付加する形で、それは発生した。そのため、それまでは「探偵小説」と呼べば何を指し示すのか明確だったものが、それだけでは自身を定義できなくなってしまった。「新しい分類群が出現する以前に自身をコードしていた構造のみによっては自身を定義することができなくなって」しまったのだ。そこで、「純正」とか「本格」とか、名称を付加する必要が生じた。

 ハードボイルド派と心理サスペンス派が生じたが、一部はそれまでの作風から変化することなく、そのままの形で残った。それが「本格」である。とり残された、という言い方に抵抗を覚えるなら、原型を保った、と言えばいい。だから Pure なのだ。現在のアメリカの言い方なら、Traditional(伝統派)がそれにあたるだろう。(下図)


 日本で昭和30年代に現われた「社会派推理小説」(これは、正確には流派ではないが)も、これを「本格」と対立するジャンルだと思った人がいた。しかし、発生時の「社会派」は、間違いなく「謎を解く物語」であり、これまでの探偵小説の定義と矛盾するものはない。「社会派」は探偵小説(=本格探偵小説)の内部に生じたジャンルであり、本格探偵小説に「社会問題」というテーマを付加したもの、と考えれば、すっきりとジャンル・イメージが理解できるのではないか。

 探偵小説全体からある特定のジャンルを除いた「残りの探偵小説」が「本格」なのだ。この考えで言えば、「本格」は非A群の定義しかできない。取り除いたものも、同じ特徴(謎解き)を有しているのだから、それだけでは自らを定義できないのである。明示的な本格ミステリの定義がなかなかできない理由は、実はここにあるのではないか。

 本格ミステリを探偵小説全体の総称ではなく、「謎解き物語」の1ジャンルとして使用するなら、このようなネガティブな定義しかできない、というのが、現在のぼくの考えである。

*1:乱歩の用語「心理スリル派」は、いまでは違和感があるので、こう呼ぶことにする。