恐怖の谷/補遺その1

 山中版以外の児童向け『恐怖の谷』についても、触れておこう。


 前作の『緋色の研究』は、児童向け翻訳ではさまざまな題名が用いられていた。岩崎書店《ドイル冒険・探偵名作全集》の『赤い糸のなぞ』、集英社《名探偵シャーロック・ホームズ》の『緋色の研究』など、原題をきちんと生かした「赤い糸」系、山中ポプラ社版の『深夜の謎』、偕成社版の『深夜の恐怖』などの「深夜」系、阿部ポプラ社版の『赤い文字の謎』、講談社版や学研版の『赤い文字の秘密』など、壁の血文字を生かした「赤い文字」系と、それぞれに工夫をこらしている。なかには金の星社ファア文庫のように、『ローリストン・ガーデン殺人事件』と、たしかに正確だが児童向けとしては少々魅力に欠けるものもある。

 対して、『恐怖の谷』はただ一例を除いて、すべて『恐怖の谷』である。たしかにこの題名は、そのままで、分かりやすく、しかもインパクトがある。ちなみに、その例外の一例とは、講談社《名作選名探偵ホームズ》で採用された『消えたスパイ』だ。残念ながら、この版は読んでないため、ここで言うスパイは、モリアティの計画をホームズに連絡してきたポーロックのことなのか、それとも第二部の主人公のことなのか、はたまた全く別の人物を指しているのか、不明である。

 ともあれ、手元のいくつかの児童向けリライト本を見てみよう。

 ポプラ社阿部知二版は全12巻のうち、『恐怖の谷』は11巻に当てられている。自らの一般向け翻訳文の雰囲気をそのまま生かして、再構成されているのは、前回見た『赤い文字の謎』=『緋色の研究』と同じだ。ただ、例えば原作では詳しく述べられるバールストン館の由来が数行にまとめられていたりと、児童には難しいと判断した部分は、手際よく省略している。

 二部構成や章立ても原作どおりで、ただ、第二部の題名は、一般向けでは「天誅団」だが、児童向けでは「魔の殺人団」なり、「スコウラーズ」の和名も、「天罰団」と変更されている。これは、「天誅」という言葉が、児童には馴染みがないという配慮だろう。

 ちなみに、第二部の秘密結社「スコウラーズ」The Scowrers は、もともとの語源がはっきりしないためか、一般向け翻訳でも多くはカタカナで表記しているようだ。今回確認した児童向けでも、ほとんどがカタカナ表記だったが、亀山龍樹が個人訳した学習研究社の《名探偵ホームズ》が「荒天団」となっていた。天候に関係した合言葉を使うことから、「荒天団」としたのかもしれない。ぼくも、「スコール」と語感が似ていることから、そんな風にも思っていたのだが、スコールのスペルは Squall で、「スコウラーズ」の語源とは関係ないらしい。

 もうひとつ、阿部知二訳を読んでいて気になった箇所がある。これは一般向け翻訳でも同じなのだが、冒頭でホームズがマクドナルド警部にモリアーティの悪事の説明をするところで、例のセバスチャン・モーラン大佐の名を出し、こう語る。

「この男(モーラン大佐)が教授にいくら払っていると思うかね。」
「さあわかりませんな。」
「年に六千ポンドだ。モリアーティは、犯罪者たちに知恵を貸すことで、これだけの収入をえている。」(ポプラ社版/一般向け翻訳でもほぼ同じ)

 この部分は、延原謙訳では、こうなっている。

「この男に教授がいくら与えていると思います?」
「わかりませんね」
「一年六千ポンドです。知恵の代償ですね。」

 阿部訳では、モーラン大佐がモリアーティ教授に、知恵の代価として年六千ポンド支払っていることになっているが、延原訳では逆に、モリアーティ教授がモーラン大佐を部下としてかかえるため、年六千ポンドを出している。ちなみに原文は What do you think he pays him? で、たしかにこの文では、誰から誰に金を払っているのか、文脈で判断するしかない。銃の腕前はすばらしいが、それほど知恵があるとも思えないモーラン大佐を、「知恵の代償」としての大金を支払ってまで雇うのはおかしいような気がする。ここは阿部訳が正しいのかと思って、児童向けの完訳に近い亀山龍樹訳(学習研究社)と日暮まさみち訳(講談社青い鳥文庫)をめくってみると、こうなっていた。

「教授はこの参謀長に、いくら小づかいをやっていると思いますか。」(亀山龍樹訳)
「教授がこの男に、いくら金をはらっているとおもう?」(日暮まさみち訳)

 ううむ、多数決では、モリアーティ教授からモーラン大佐だ。これでいのだろうか?