恐怖の谷(その3)/謎の暴風と荒波


 こうして、マクドナルド警部の要請で、ホームズとワトソンはバールストーン村に向かう。


 原作はここで、ワトソンが「あとで知ったことに基づき、私たちの到着前に現場でおこったことを述べるのを許していただきたい。」と断り書きをいれ、三人称で事件のあらましが語られる。それに対し、山中版は、「マクドナルド警部と同行する自動車の中、駅、汽車の中で、ホームズとぼくは、警部が手帖を見ながらの説明を、ねっしんに聞き、ぼくもまた、対話をあわせて、自分の手帖へ、いちいち書きつづけて行った」のである。こういう風に、原稿の書かれる過程をきちんと述べるのが、山中版の特徴といえる。つまり、ワトソンはバールストーンまでの道中、ひっきりなしに手帖にメモをしていたのだ。この後も、例えばホームズの尋問中に、そばで熱心に筆記している。臨場感あふれる原稿が書ける所以である。

 ところで、一行は鉄道の駅まで自動車で移動している。バールストーン駅に迎えに来たメイソン警部が乗っているのも、自動車だ。この時代に自動車はすでにあったが、大衆的ではなかった。ホームズ時代といえば馬車のイメージであり、原作ではもちろん、馬車を使用している。前作『深夜の謎』でホームズとワトソンがロンドン市内を移動するのは馬車だったし、ゼファソン・ホープの職も、タクシーの運転手ではなく、馭者である。どうしてここで急に自動車になったのか、よくわからない。それよりなにより、山中ホームズの時代がいつなのか、2作まで読んだところでは、よくわからないのだ。原作では事件の年月があちこちで触れられているが、山中版では今のところ、年代は記されていない。

 さて、一行を出迎えてくれた現地のメイスン警部、原作ではこう描写される。

もの静かな、気らくそうな顔つきをした男で、スコッチのゆるい服を着ていた。きれいにそった赤ら顔に、ややふとり気味、力づよいガニまたにきちんとゲートルをつけたところは、小百姓か隠居した猟場番といったところで、これが有能な地方の捜査官とは、誰の目にもうけとれなかった。(延原謙訳)

それが山中版では、こうである。

メイスン警部は、ピチピチしている。早口で、ひげもきれいに、そっていて、美男子だ。

 『深夜の謎』でもランス巡査が美青年になっていたが、山中峯太郎は警察官を美男子にするのがお好きのようだ。対して、女性はどうか。例えばダグラス家の家政婦アレン夫人は、原作ではとくに外見描写がないが、山中版は、

三十五、六才らしい、とても大女で、デブデブにふとっている。あごなど二重になっていて、背も高い。
「あたくし、ミス・アレンですの」
と、声も男みたいだ。(中略)
アレン女史が立ちあがると、いすがミシッと音をたてた。おどろくべき大女である。

 と、やたら詳しい。しかも、悪意があるとしか思えない書き方だ。ううむ。これはいかがしたものか。

 ミステリ的な面で大きく異なっているのは、館に泊っている被害者の友人バーカ(原作ではバーカー)の証言である。死体発見の時間を午後11時直後、警察への第一報が午後11時45分になっている。警察までの所要時間は12、3分だから、30分間の謎の時間帯が生じると、ホームズが指摘するのだ。しかし、原作のバーカーは、11時半に死体を発見したと証言している。ホームズも、バーカー訊問の時点では、時間のくい違いを問題にはしていない。殺人発見の時間が問題となるのは、他のさまざまな証拠からだ。

 こうして、ホームズの提案で、ワトソンと両刑事、巡査部長の五人が夜の探検に赴く。その前に、ホームズは「探検まえの腹ごしらえ」と、料理屋で食えるだけ食う。そう、山中版の大食いホームズだ。

ホームズは、ゆでたまごを六つも、ムシャムシャとたいらげた。家にいても精力はさかんで、大食いなのだ。ぼくの三倍くらい、いつも食う。

 前回の『深夜の謎』で、「どこからホームズ大食い説が出てきたのか、非常に興味がある。」と書いたが、原作の『恐怖の谷』には、ホームズが領主館の捜査から宿に「ひどく腹をすかせて帰ってきて、私が頼んでやった夕食兼用のお茶を、がつがつと摂」るシーンがある。「夕食兼用のお茶」という表現は、延原謙訳であり、阿部知二訳では、「肉料理つきのお茶を、がつがつと食べ」ている。どちらにしろ、がつがつしている。さらに、「四つ目の卵を平らげたら、詳しいことを話すつもりだよ。」などと言う。

 山中峯太郎はここで、「何、卵四つ!」と驚いたのではないか。今でも、卵四つは多いと思うが、当時の日本人にとっては、まさに大食い。そこで、大食いホームズがインプットされ、児童向けにいささかオーバーに脚色して、「ゆでたまごを六つも、ムシャムシャとたいらげ」ることととなった。この説だと、『深夜の謎』の前に『恐怖の谷』が書き出されていなくてはならないが、ひとつの仮説として挙げておく。

 夜の探検の末、ついにホームズは犯人の名を指摘すると、「まるで壁のなかからでも現れたように」、一人の男が姿を見せる。あくまで「壁のなかから」は比喩である。しかし、山中版の演出は違う。ホームズが暖炉に向かって、「出てくるがいい!」と叫ぶのだ。

 大きなだんろだ。かべの中にはめこまれている。火はたいてない。よこの方のかべが、音もなく動きだした。みんながまばたきもせず、いっせいに見つめている。ああ、なんという事だ!
 かべの一部分が、よこにあいて、音もなくピタリと止まった。そこから出てきた、ひとりの男――

 それでも、原作の「壁のなかから」を踏まえた上での演出である。けっして、天井裏から現れるわけではない。山中峯太郎の演出は、奔放ではあっても、出鱈目ではない。意外と手堅く、また理にかなっている。

 例えば、このあと犯人が長い告白をする時には、夫人によって大皿のサンドイッチと紅茶が振舞われる。みんな前日の夜以来、食事をしていない上、話が長くなるためである。ちゃんと考えられているのだ。また、ホームズが「アメリカ探偵史に書かれている。「スコウラーズ」という殺人団を一網打尽に破滅させたのは、あなたでしたか!」と、過去の事件を知っているのも、「スコウラーズ」事件は実在のピンカートン探偵社が関与したモリー・マガイアズ事件を元にしていることを知っていれば、なるほどと頷ける改変だ。

 こうした原作を補完するような改変で、今回最も感心したのは、最初に登場する謎の密告者ポーロックの正体である。ダールストン事件でも生き延びた老探偵は、しかし、第二部の題名にあるように、「謎の暴風と荒波」により、船上で命をおとす。もちろん、これは暗(やみ)の帝王モリアチイの仕業なのだが、この凶報は再びポーロックからの手紙によって知らされる(というか、ほのめかされる)。原作ではポーロックの正体は分からないままだ。しかし、山中版ではこう述べられる。

「しかし、そのモリアチイの手下であるポーロックが、どうして、このような知らせを、あなたにしてくるのですか?」
「そう、これが前にはわからなかった。が、ワトソン君が書きなおしたエドワーズ氏の思い出の記を、読んでいるうちに、わかってきた。いわゆる「恐怖の谷」のバーミッサで、殺人団の同志でいながら、エドワーズ氏と親しくしていたのがいる。これがロンドンに来ていて、モリアチイのそばに付いているらしい」
「フーム、なるほど、……」
「親しくしていたエドワーズ、恐怖の谷ではマクマードといっていた。好ましかったマク兄きが、おそるべき暗(やみ)の帝王モリアチイに、にらまれだした、と知って、すててはおけない。マク兄きをまもってもらいたい、と、ぼくに目をつけて、暗号の手紙をおくってきた。

 恐怖の谷でマクマードを「マク兄き」と慕ってた人物で、名前が出てくるのは、最初に列車の中で出会って以来親しくしていたマイク・スカンランぐらいか。とすると、ポーロック=スカンランということになる。ううむ、こうした説は、シャーロッキアンの間にあるのだろうか。

 ともあれ、こうして事件は終結をみる。山中版も最後は、ホームズが悪の帝王に打ち勝つ未来を見すえるシーンである。その記録を、ワトソンが熱心に書き続けているときに、またしても事件が舞い込んでくる。それは「はるかに遠いアジア大陸から」の怪事件であった。そう、次は『四つの署名』、いや、『怪盗の宝』だ。