恐怖の谷/補遺その2

 児童向けシャーロック・ホームズの邦訳で、『恐怖の谷』が収録されているものを、各種文献で調べて見ると、以下のようになる。書名に「名探偵ホームズ」等とついているものもあるが、便宜上省いた。また、装丁や奥付けを替えていくつかの版が出ているものもあるが、これも抜いてある。

  1. 『恐怖の谷』柴田錬三郎訳 偕成社/世界名作文庫84巻 1954-05-05
  2. 『恐怖の谷』山中峯太郎訳 ポプラ社/世界名作探偵文庫 1954-05
  3. 『恐怖の谷』山中峯太郎訳 ポプラ社/名探偵ホームズ全集9巻 1956-07
  4. 『恐怖の谷』水谷準訳 筑摩書房/世界の名作12巻 1956-09-15
  5. 『恐怖の谷』久米元一訳 講談社/少年少女世界探偵小説全集13巻 1957-12-15
  6. 『恐怖の谷』塩谷太郎訳 岩崎書店/ドイル冒険・探偵名作全集6巻 1960-06
  7. 『恐怖の谷』柴田錬三郎訳 偕成社/世界推理・科学名作全集5巻 1962-10
  8. 『恐怖の谷』野田開作訳 偕成社/名探偵ホームズ10巻 1967-01
  9. 『恐怖の谷』阿部知二訳 ポプラ社/シャーロック・ホームズ全集 1970-04
  10. 『消えたスパイ』久米元一訳 講談社/名作選名探偵ホームズ4巻 1972-04-24
  11. 『恐怖の谷』久米みのる訳 集英社/名探偵シャーロック・ホームズ7巻 1973-04
  12. 『恐怖の谷』阿部知二訳 ポプラ社/世界名探偵シリーズ11巻 1973-12
  13. 『恐怖の谷』亀山龍樹訳 学習研究社/名探偵ホームズ12巻 1973-12
  14. 『恐怖の谷』久米元一訳 小学館/名探偵ホームズ全集10巻 1974-04(新版11巻1984-08-20)
  15. 『恐怖の谷』山中峯太郎訳 ポプラ社ポプラ社文庫 1976-11
  16. 『恐怖の谷』武田武彦訳 春陽堂春陽堂少年少女文庫 1980-10-05
  17. 『恐怖の谷』内田庶訳 偕成社/シャーロック=ホームズ全集4巻 1985-04
  18. 『恐怖の谷』小林司東山あかね訳 金の星社フォア文庫 1992-06
  19. 『恐怖の谷』日暮まさみち訳 講談社青い鳥文庫 2000-01-15
  20. 『恐怖の谷』各務三郎訳 偕成社偕成社文庫 2000-10

 もしかしたら、いくつか抜けているかもしれないが、それにしても多い。このうち、山中峯太郎の2と3と15は、実見していないが、おそらく同じ訳文。前回みた阿部知二訳は、おなじポプラ社の《世界名探偵シリーズ》の11巻にも収録されているが、これも、ページ数から判断して、同じ内容だろう。実見したものでは、5の《少年少女世界探偵小説全集》13巻に収録された久米元一訳の『恐怖の谷』と、10の《名作選名探偵ホームズ》4巻に入っている『消えたスパイ』は、文章だけでなく、1ページの活字数から挿絵のレイアウト位置まで、まったく同じ内容だった。もっとも、挿絵そのものは違うのだが。こういう書き出しである。

「どうも、たいくつだな。なにか、むねをどきどきさせるような事件でもおこらないかな。」
 ワトスンは、読みかけの新聞を、ぽんとテーブルの上にほうりだしと、うーんと一つ、せのびをした。
「ははは、ワトスン。きみのようにやきもきしても、だめだ。ぼくたちは、えだの間に巣をはっているくもみたいなものだからね。ちょうやとんぼがとびこんでくるのを、気長に待っているよりしかたがないんだ。」
 名探偵ホームズは、愛用のパイプにゆっくりときざみをつめながらいった。
(中略)ホームズがここに私立探偵の事務所をひらいてから、すでに二年あまりになる。

 まず、三人称なのが目をひく。偕成社版も多くが三人称だったが、児童向けは、ワトスンのようなおじさんの一人称は馴染まないとの判断だろうか。しかし、この講談社の《名作選名探偵ホームズ》の『恐怖の4』(『四つの署名』)などは、ワトスンの一人称になっているのだ。同じ叢書で同じ久米元一訳なのに、なぜに違うのか。おおらかといえばおおらかな編集である。

 で、もう一冊の久米訳である14の小学館《名探偵ホームズ全集》の『恐怖の谷』は、こうはじまる。

「ホームズ、どうした? なにを考えこんでいるんだ? 早く食べないと、せっかくの朝食がさめてしまうぞ。」
 テーブルのこちら側から、ぼくがさいそくした。
 しかしホームズは返事もせず、パイプをくわえたまま、テーブルの上に手紙をひろげて、じっと考えこんでいた。

 もちろん、ホームズが見ているのは、ポーロックからの暗号文である。どちらかといえば、こちらのほうが原作に近い。小学館版は、ワトスンの「ぼく」で統一されているようだ。さすがに、ほぼ同時期に別の出版社から出ているものとは、訳文を変えている。しかし、例えば次のようなホームズの描写は似かよっている。

身長六フィート(約1.8メートル)見たところ、すらりとして、ひ弱そうに見えるが、なかなかどうして、フェンシングならびにボクシングの達人で、日本の柔道の心得もあり、いざというときには、悪漢をあいてにむねのすくような大活劇をえんじるのだった。(講談社版『消えたスパイ』)

身長一メートル八十センチあまり、見たところ、すらりとしているが、ボクシングをはじめ、いろいろなスポーツできたえた、がっしりした体格をしていた。うわさによると、日本の柔道のこころえもあるそうだ。(小学館版『恐怖の谷』)

 第二部でも、例えばスコウラーズ入団式での肝試しは、原作では目隠しをされて、目の部分に硬い尖ったものを押し当てられた状態で、一歩前に出る、というものだが、久米版は、どちらも焼けただれた鉄の棒を押し当てられることになっている。また、殺人団一味を一網打尽にした後、エドワーズ探偵が恋人エティと恐怖の谷から去るときに、二人の会話があるのも、同じだ。エティの乙女ごごろを描くこんなシーンは、原作にはない。

「いつだったか、わたしがあなたの下宿にうかがったとき、あなたは手紙を書いていらっしゃいましたね。あの手紙は……。」
「ああ、あれですか。あれはね、ぼくがしらべたスコウラーズ団の情報で、本部のピンカートン探偵局へ知らせる手紙だったのです。」
「まあ。それじゃ、わたしに見せてくださらなかったもの、あたりまえね。うたがったりして、ごめんなさい。」(講談社版『消えたスパイ』)

「いつだったか、わたしがあなたの下宿にいったとき、あなたは手紙を書いていましたね。あの手紙はだれに……。」
「ああ、あれはね、ぼくがくわしく調べたスコウラーズの秘密情報を、シカゴのピンカートン探偵局へ知らせる手紙だったのです。」
「まあ。それじゃ、わたしに見せてくださらなかったもの、あたりまえね。わたし、女の人に出す手紙かと思って、あなたを疑ったりしてごめんなさいね。」(小学館版『恐怖の谷』)

 ほぼ同時期でた四つの児童向けホームズ叢書(上記のリストの10・11・13・14)のうち、学習研究社の亀山龍樹訳はほぼ原作どおりであるが、のこりの一冊、集英社版《名探偵シャーロック・ホームズ》7巻、久米みのる訳の『恐怖の谷』の書き出しはこんなである。

「まったくたいくつだな。背すじが寒くなるような、スリル満点の事件でも起らないかな。」
 ぼくは読みかけの本を、ぽんとテーブルの上にほうりだすと、同室の友シャーロック・ホームズにいった。だが、ホームズは、テーブルの上にのっている朝食に手をつけず、けさ配達された封書からとりだした紙片のようなものを、一心不乱にながめていて、返事もしてくれない。
(中略)
 ホームズは頭がいいだけでなく、腕力の点においても、けっしてスコットランド・ヤードロンドン警視庁)の探偵たちにひけをとらなかった。身長1.8メートル、すらりとしてひ弱ように見えるが、どうしてどうして、フェンシングならびにボクシングの達人で、日本のジュードーの心得もある。いざという時には、凶悪な悪漢相手に、胸のすくような大立ち回りを演じて、かならずといってもいいほど相手をひっとらえてしまうのだ。

 入団式で目隠しされた目に当てられるのも、やっぱり焼けただれた鉄棒だ。おまけに第一部、第二部の題名も、講談社版は「古城の惨劇」「V谷の秘密」であり、集英社版は「古城の悲劇」「V谷の快男児」と似ている。ちなみに小学館版は「深夜の銃声」「恐怖の暗殺団」である。

 久米元一訳の講談社版と小学館版よりも、久米みのる訳の集英社版とが似ているようである。同じ久米でも、久米みのる(穣)は、もちろん、別人なのだが。これは、どういうことなのだろう。偶然なのだろうか。ひとつ指摘しておくと、講談社の《名作選名探偵ホームズ》は久米元一久米穣、二人で全作を担当し、集英社の《名探偵シャーロック・ホームズ》で久米みのるが担当したのは、この『恐怖の谷』一冊だけ。しかも、講談社の叢書が完結した直後に刊行されている。ある程度、先の叢書の翻訳に影響されたのか。