ミステリの分類(5)/二つの類別・その2――推理の物語と捜査の物語


 二階堂黎人は「二十一世紀のミステリーに向けて」*1の中で、「ミステリー」というジャンルを「世の中に有形無形で存在するあらゆる《謎》を、自己の物語中に含んだ小説ジャンルの総称である。」と述べた上で、「その性格によって大きく二つに分けられる。すなわち《推理的小説》と《捜査的小説》である」としている。この二つの類別は、二階堂の説明では、以下のようになっている。

《推理的小説》という区分に含まれるのは、従来からの「探偵小説」や「推理小説」である。
《捜査的小説》という区分に含まれるのは、その他の「ハードボイルド」「警察小説」「犯罪小説」「サスペンス&スリラー」「スパイ小説」等である。
(中略)
《推理的小説》とは、ミステリーのうち、謎を推理という思索的行為によって解決する物語である。
《捜査的小説》とは、ミステリーのうち、謎を捜査という体験的行動によって解決する物語である。
 最大の違いは、謎の探求の仕方だ。《推理的小説》の場合には、文字どおり探偵もしくはその他の人物の推理によって謎の解明をみるわけで、そのためには必然的に物語中にちりばめられた手がかりが必要になる。推理小説の物語中に、よく「読者への挑戦」が挿入されるが、それは手がかりを過不足なく、公平に読者へも分け与えたという、作者からの明確な意志表示である。
 しかし、《捜査的小説》の場合には必ずしも手がかりは必要なく、物語の推移や探偵の行動によって、順次結論・結末にたどりつけばよい。謎の解決は、どちらかというと、作者から一方的に提示されることになる。
 したがって、この二つの小説区分は、「ミステリー」という一つの名前の元にあっても、根本的には、性質や目的がまったく違う種類のものなのだ。これはミステリーを論じる時には非常に重要な要項なのだが、残念ながら一般的に、明確には認識されていない。

 二階堂の説明はわかりにくく、かえって物事を混乱させる。もちろん、「捜査的小説」にも手がかりは必要である。捜査とは、手がかりを手に入れる過程にほかならない。もしかりに「相手をぶん殴って白状させる」ようなシーンがあったとしても、それは「ぶん殴って」手がかりを手に入れているだけの話だ。また、推理的小説においても、謎の解決はおおむね、名探偵の口を借りて「作者から一方的に提示される」。この二つの小説が「根本的には、性質や目的がまったく違う種類」であるなら、同じ名前の元に呼ばれることは、本来ありえないはずだ。これは、ウィラード・ハンティントン・ライト(S・S・ヴァン・ダイン)が探偵小説と謎の小説(ミステリイ)について、「共通するものがほとんどない」と述べたのと同類の、事実を無視した論者の希望的意見であろう。

 とはいうものの、ミステリーを「推理の物語」と「捜査の物語」に類別するのは、あながち的外れではない。二階堂が言う「ミステリー」を、ここでは「探偵小説」として考察しているのだが、探偵小説を「謎解きの物語」と解釈し、謎を解くために必要な手順を「捜査」と「推理」に分け、それによって探偵小説を二つに類別する試みだ。これは、前回のマーチの区分による「探偵小説」と「スリラー」の違いと、ある面では一致する。もう一度、マーチの説明をまとめたものを引用すれば、

  • 探偵小説 …… 比較的地味な形の犯罪を扱い、探偵が知力により事件を解決する小説で、読者の知的好奇心に訴える。
  • スリラー …… 常に劇的な犯罪を扱い、探偵が行動により事件を解決する小説で、読者の扇情的好奇心に訴える。

 ということになる。「地味な形の犯罪」と「劇的な犯罪」という点は、おそらく二階堂の意識では逆だろうが、「知力による事件解決」と「行動による事件解決」という点では、推理的小説と捜査的小説の説明にかなさる。しかし、ここではこの二つの類別を、別の面から考察してみたい。

 ほとんどの探偵小説は、「推理」と「捜査」が不可分に結びついて、これを明確に弁別することは不可能である。しかし、推理と捜査のどちらにより面白さがあるか、ということで考えると、捜査物語の系譜というのは、ガボリオーからA・K・グリーン、クロフツを経て、戦後の警察小説まで続くひとつの流れとして、確かにあったと思う。多くの私立探偵小説も、松本清張の一部の作品も、この捜査物語の流れとしてとらえることが可能だろう。探偵小説の発展史の中の、重要な系譜である。それは、二階堂がイメージしただろうスリラー作品=「扇情的要素の強い探偵物語」としてではなく、理知的な探偵小説の系譜のひとつとして位置づけられる。

 探偵小説を「謎解きの物語」とし、謎を解く手順で命名すれば「推理型」と「捜査型」になるが、一方、探偵小説を「探偵の物語」とするなら、これはそのまま、探偵の性格づけによる分類となる。それが、天才型探偵と努力型探偵*2、もしくは思索型探偵と行動型探偵という分類法だ。天才型(思索型)探偵=推理の物語であり、努力型(行動型)探偵=捜査の物語である。乱歩は「二つの角度から」(『幻影城』所収)の中で、天才型にはデュパン、ホームズ、ソーンダイク博士、ポアロ、ファイロ・ヴァンス、フェル博士らを入れ、努力型にはルコック探偵、W・コリンズのカッフ刑事、A・K・グリーンのグライス警部、J・S・フレッチャーやクロフツの主人公をあげ、最近(この文章の発表は昭和22年/1947年)のクイーン探偵も、このタイプに近づいたとしている。

 努力型探偵や行動型探偵というのは、何も考えずに行き当りばったりに歩き回ったり、拳銃を突きつけて自白を強要したりする探偵のことではない。捜査というのは、きわめて論理的な行動である。現場に残された犯罪の痕跡から、次は何を調べるべきかを推測し、調査の過程で出てきたあらたな証拠(手掛り)を含めて検討しつつ、ありうる可能性をひとつひとつ潰していく行為、つまり「難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路」そのものなのだ。行動によって表現された論理、といってもいい。

 天才型探偵の最初の作例は、もちろんポーのデュパンである。そして努力型探偵の最初の例は、おそらくガボリオーのルコック探偵だろう。ところで、ルコック探偵の探偵としての師はタバレ老人である。ほとんどの生涯を質屋として真面目に働き、引退してから犯罪捜査を趣味としたこの老人は、間違いなく天才型探偵だった。『ルルージュ事件』では、犯罪現場を見ただけで犯人像を言い当てる。『ルコック探偵』では、捜査に行き詰ったルコックから話を聞いただけで、失敗の原因を指摘する。しかしガボリオはタバレ老人を主役にしてはシリーズを続けなかった。第二作以降は警察官であるルコックが主役となる。ルコックはタバレから学んだ推理の手法を実践し、現場に残された痕跡から犯人像を割り出す。しかしそれだけではない。ルコックは行動の人なのだ。手掛りを見つけたら、じっとしてはいられない。手掛りから次の手掛りを求め、容疑者の中から真の犯人を求めて、街中へ旅立つ。ガボリオーからクロフツシムノンを経て1950年代の警察小説へと至る道すじはたしかにありうるだろう。そして、かれらの始祖ルコック探偵は、天才型名探偵の愛弟子であったことを忘れてはならない。

 井上良夫の「探偵小説の本格的興味」*3は、探偵小説の面白さの本質を解説したすぐれた論考であるが、そこで井上は、「探偵小説の持つ二様の本格的な面白味」を「ストーリイ側の論理的興味」と「デテクション側の論理的興味」とした。これも広くとらえれば、捜査の面白さ、推理の面白さと解釈することができるのかもしれない。

 ストーリイ側の論理的興味について、井上良夫はこう語る。

その面白みは、プロットが織出されて行くにつれて読者が感じる一種の難解感、もしくはサスペンスであり、或はプロットの論理的な進行より受けるところの快感などがそれである。
(中略)
つまるところ探偵小説としての「事件の面白味」に外ならないことになるが、ここで前述した探偵小説の難解味(引用者注/問題そのものの難解複雑さではなく、解けそうで解けないもどかしさ)を持って来ると、プロットの上にこの難解味が出されていなければ論理的面白味が感じられない場合が非常に多いのである。
(中略)
この部に属する探偵小説の多くは、作中探偵は解決への推理を行い、読者もまたそれについて行って楽しむ傍らでは、彼自身ストーリイの進展につれて多少ともに推理憶測を強いられるものではあるが、しかし作中人物は放れ業のような奇術的推理を行なうことはない。(多くは超人探偵は現われないのである)

 そして、ストーリイ側の論理的興味の好例として、第一にフレッチャーを挙げているのが興味深い。

 フレッチャー氏の長篇探偵小説にあっては、科学的な道具立てもなければ論理的推理もなく、勿論満足な解決が行なわれてはいくものの、デテクションの側では物足りないものがあり、謂わば全篇がごく常識的である。にもかかわらず、彼の探偵小説には、探偵小説独特の論理的な興味は相当に高く、探偵的興味に富んでいる。これはそのストーリイにまず充分な不可解(ミステリイ)が盛られてあり、プロットの構成に隙がなく、且つ次から次への進展が極めてスムースに行なわれていて、読者に充分推理を促すものがあるからに外ならない。彼の作品の持味がそんな風であるからして、(文学的興味有無の観点は暫く離れ)探偵小説の興味中、いま一方のデテクションの側である論理の面白味、――多くが一種奇術的な感じのものであるが――をより愛好する人々には彼の作の傾向はあまり歓迎されないこともあるだろう。

 では、いま一方のデテクション側の論理的興味とは如何なるものかというと――

根本プロットとは別に作中探偵が述べる論理も含めて(それらは大抵の場合「推理」ではない)犯罪解決の上の推理の面白味である。

 井上良夫が述べた探偵小説のふたつの論理的興味は、江戸川乱歩が「探偵小説の定義と類別」の中で言及した、トリック型とプロット型という探偵小説の二大別*4と、おおむね合致する。乱歩の説明を見てみよう。

トリック型は謎解き小説の条件に最もよくなかっているが、手品の不自然さと子供らしさを免れず、プロット型は不自然が少なく大人読者の好みに合う代わりに、謎解きの論理的興味は乏しいのである。

 この説明と、井上良夫があげた探偵小説のふたつの論理的興味の解説を比べれば、ほぼ同じことを言っていることが理解できるだろう。ただ、乱歩が「デテクション側の論理的興味」が強い作風をトリック型としたのは、あまりにも探偵小説のトリックというものにこだわった結果で、決して適切なネーミングではなく、多くの誤解を生むもととなった。というのも、乱歩がトリック型の例としたポーにせよ、チェスタトンにせよ、実のところその作品の面白さの本質は、トリックの面白さではないからだ。

 探偵小説を推理型と捜査型に類別することは、あるいは探偵を思索型(天才型)と行動型(努力型)に分類することは、そこに厳密な線をひこうとさえしなければ、けっして不可能ではない。探偵の性格設定やプロット構成と密接に結びついた大きな傾向として、たしかに存在する。それが明確だったのは、おそらく1930年代までではあったにせよ、そうした類別は、探偵小説の面白さの本質を明確にする上で、有効だろう。

*1:海燕》掲載/ただし引用はWebサイト「二階堂黎人の黒犬黒猫館」から

*2:乱歩はいくつかのエッセイで、天才型に対し、「凡人型探偵」という言葉を使用しているが、この型に入れられるルコック探偵やフレンチ警部などは「凡人」ではない。したがって、ここでは努力型とした。

*3:「ぷろふいる」1935年/引用は『探偵小説のプロフィル』[国書刊行会]より

*4:乱歩は、探偵小説の三分類(ゲーム型、非ゲーム型、倒叙型)とは別に、これを提示している。