ミステリの分類(7)/二つの類別・その4――本格と変格


 探偵小説の二分法をさぐる四回目は、「本格」と「変格」である。本格探偵小説と変格探偵小説という分類法について検討しよう。まず、この言葉が歴史的にどう使用されてきたかを確認していくことにする。


 この日本独自の言葉の由来は、中島河太郎の『推理小説展望』の「第三章 本格と変格」に詳しい。これに従い、時系列でまとめると以下のようになる。

  • 佐藤春夫が探偵小説について述べた文章で、「純粋な探偵小説」(ポー「モルグ街」、ドイル、フリーマン、モリソン、ガボリオ、ルブラン/論理的に判断して犯人を捜索するもの/健全な頭脳から湧出する智脳の活躍)と「それほど純粋でない探偵小説」(ポー「黒猫」、ホフマンなど/ミステリイ・ストーリイ、ファンタスティック・ストーリイ)を区別した。(「探偵小説観」/『新青年1924年8月)
  • 甲賀三郎が「犯罪捜索のプロセスを主とする小説」を「純正探偵小説」とした。(「『呪われの家』を読んで」春田能為名義/『新青年』1925年6月)
  • 甲賀三郎がエッセイで「本格探偵小説」の語を用いた。(「印象に残る作家作品」春田能為名義/『新青年』1925年8月)
  • 平林初之輔が乱歩の探偵小説の傾向を恐怖的作品(「恐ろしき錯誤」「赤い部屋」)と理智的作品(「心理試験」「一枚の切符」)に二分した。(「『心理試験』を読む」/『新青年』1925年10月)
  • 平林初之輔が我国の探偵小説の傾向を「健全派」と「不健全派」に二分した。(「探偵小説壇の諸傾向」/『新青年』1926年2月)
  • 山下利三郎がエッセイで、「変格派」は甲賀三郎が名付け親だとした。(「画房雀」/『探偵趣味』1926年2月)
  • 小酒井不木が懸賞当選作の感想で、「本格探偵小説」「変格探偵小説」を使用した。(「当選作所管」/『新青年』1926年6月)
  • 甲賀三郎が、平林初之輔の「不健全派」を「変格探偵小説」と呼ぶことにした、と回顧した。(「探偵小説講話(三)」/『ぷろふいる』1935年3月)

 以上の流れをみれば分かるように、「本格探偵小説」=「純正探偵小説」=「健全派」対「変格探偵小説」=「それほど純粋でない探偵小説」=「不健全派」という構図になっている。それぞれの言葉の指すものは、概ね同じといっていい。「本格」「変格」ともに甲賀三郎命名者のようである。

 では、甲賀は「本格探偵小説」「変格探偵小説」という言葉をどう説明したのかだろうか。「探偵小説講話――まえ書」(『ぷろふいる』1935年1月)から引用してみよう。(引用は『現代推理小説体系・別巻2』[講談社]による)

私が探偵小説の名から排斥しようというのは、所謂変格探偵小説として、探偵は勿論犯罪らしきものさえないものをいうので、之等のものは後に論ずるように、宜しく他の名称を附すべきであると信ずるのである。
(中略)
我国で変格探偵小説と呼ばれるものは、みな同じ種類のものが欧米で書かれている。只、彼等はこれを探偵小説と呼ばないだけである。
(中略)
本格探偵小説というものは、要するに犯罪捜査小説であり、それに適当な謎とトリックを配し、読者に推理を楽しませるものであり、一面からいえば、文学としては幼稚で窮屈で、千篇一律的のものである。

 これらの文章を読むかぎり、甲賀三郎が定義した「本格探偵小説」というのは、探偵小説というジャンルのなかの一部ではなく、探偵小説(Detective Story/Novel)そのものを指していることは明白であろう。「本格」「変格」という言葉の発生の歴史を眺めれば、疑問の余地はない。当時の日本では、 detective story だけでなく怪奇・幻想小説、秘境冒険小説、犯罪小説、SF、オチのある短編小説など、本来、探偵小説とはいえないものも「探偵小説」という名称で呼ばれていた。だから、それらを区別するために、本来の「探偵小説」を「本格探偵小説」とし、それ以外の周辺分野のものを「変格探偵小説」と読んだわけだ。甲賀は探偵小説を「本格」と「変格」に分類したのではなく、「探偵小説」とそれ以外のものを区別したのである。

 要するに、A・非A型の分類なのだ。Aだけをくくるために設けられた区分肢で、甲賀の目的からすれば、それでよかった。「変格」とは雑多なジャンルの寄せ集めである。この言葉が早い時期から使われなくなったのは、変格に含められたそれぞれジャンルが独立したというよりは、もともと「変格」を統一するような特徴、区分内容の明示性がなかったからであろう。

 長谷部史親は『日本ミステリー進化論』[日本経済新聞社]の中で、甲賀説を、

英米流リアリズム文学の手法に則って犯罪の謎を追う推理小説が「本格」であり、そうでないものが「変格」なのである。(中略)当然ながら、フレッチャーやエドガー・ウォーレスらの活劇スリラーも、甲賀にとっては「本格」だったのである。

 とまとめている。甲賀が考える(本格)探偵小説の範囲は、かなり広かったというわけだ。甲賀フレッチャー型の作品『姿なき怪盗』を書いていることからも、こうしたタイプも探偵小説=本格だと思っていたことは間違いない。前出の「探偵小説講話――まえ書」でも、探偵小説(つまり甲賀のいう本格探偵小説)の定義を「探偵小説とは、先ず犯罪――主として殺人――が起こり、その犯人を捜査する人物――必ずしも職業探偵に限らない――が、主人公として活躍する物語である。」とし、「ルパン物語や、地下鉄サムは十分この定義の中に這入り得る」としているぐらいだ。

 これが甲賀だけの認識ではなかった傍証に、井上良夫の「探偵小説の本格的興味」から次のような文章を挙げよう。(「ぷろふいる」1935年/引用は『探偵小説のプロフィル』[国書刊行会]より)

甲賀三郎氏が折角「探偵小説講話」で述べている定義の明確さを損じることのないよう、一寸お断りしておきたいが、私のこの一文では、大体に於て、「犯罪とその解決」という、探偵小説としては根本と思われる面白味が取り扱われてあるものを長、短篇に係らず「探偵小説」或は「本格(的)探偵小説」と呼ぶのであることを御承知おき願いたい。

 井上良夫は、甲賀三郎と同じ意味で「本格」を使用し、その上で、すでに「推理の物語と捜査の物語」の回で引用したように、フレッチャーらのなかに「本格的興味」を見ている。「本格」の面白さとは、探偵小説の面白さにほかならないのだ。

 ところで、『海外ミステリー事典』(新潮選書)では、「本格」はこう説明されている。(執筆者/新保博久

英語の puzzler、または puzzle story に相当する。推理小説のうち、謎解き、トリック、頭脳派名探偵の活躍などを主眼とするもので、日本と違って、欧米では古典的な探偵小説の時代には、大半が本格に属していたため、弁別の必要がなかった。

 これまでの考察からすると、この説明は間違っていることになる。欧米でも古典的な探偵小説の時代に「謎解き、トリック、頭脳派名探偵の活躍」する作品ばかりが書かれたわけではない。D・L・セイヤーズの『犯罪オムニバス』(1928)の序文や、H・ダグラス・トムスンの『推理小説作家論』(1931)の第一章を読んでも(どちらも『推理小説の美学』[研究社]に収録)、数の上では知性的なものよりセンセーショナル派のものが圧倒的に多いことにふれられている。しかし、欧米でも、それらを含めて「探偵小説」と呼ばれていた。しかし、怪奇・幻想小説や秘境冒険小説が「探偵小説」と呼ばれることはなかった。「欧米では古典的な探偵小説の時代には、大半が本格に属していたため、弁別の必要がなかった」のではなく、欧米では探偵小説は「探偵小説」と呼ばれているが、当時の日本では探偵小説以外のものも「探偵小説」と呼ばれていたために、弁別の必要があったのだ。

 したがって、「本格」と「変格」を対峙させた場合、「本格」は明らかにリアリズムの側にある。すでに見てきたように、ポーの作品でいえば、「モルグ街」「盗まれた手紙」が本格であり、「黒猫」「アッシャー家」が変格となる。乱歩でいえば、「一枚の切符」「二銭銅貨」が本格、「人間椅子」「押絵と旅する男」が変格である。現実派と空想派、リアル派と反リアル派というような対峙軸を考えた時、前者が本格で、後者が変格なのである。探偵小説は、基本的にはリアリズム文学として発展してきた。リアリズム文学という場合、すぐに「自然主義的リアリズム」が持ち出されるが、そうではない。あらゆる謎を、この現実の中で解決しようするのだから、リアリズムなのだ。そして、現実離れしている、ありそうにもない、という感想は、探偵小説に対する批判としてなされた。まず、本当らしくみえること、それが探偵小説の基本と思われていた。

 黄金時代の欧米でも、そうだった。例えば、フランソア・フォスカの『探偵小説の歴史と技巧』(1937)では、探偵小説は次のように分類される。(江戸川乱歩『随筆探偵小説』収録の「探偵小説の定義と類別」から引用)

  • スリラー(ウォーレス、ガボリオ、ボアゴベ)
  • 写実派探偵小説(本格ものの大部分)
  • 空想派探偵小説(チェスタトン、カー、アリンガム)

 本格もの(つまり探偵小説)はほとんど、写実派探偵小説に含まれるのである。さらに、このようことを言う人もいる。

探偵小説にとっては、現実感が不可欠である。探偵小説のプロットを自然主義的環境から取り出して、空想的な雰囲気を与えようとするこころみが何度か行なわれたが、いずれも失敗だった。「スペインの古城」的雰囲気というのは、読者に日常の実生活からの逃避を可能にするもので、普通の通俗小説には魅力や親しみをもたらしてくれる。しかし、探偵小説の場合は、現実感が十分に保たれていないと、その目的が――つまり解決にともなう精神的な報いが――失われてしまいがちである。謎そのものにつまらない感じが出てきて、読者は無駄な努力をしているという感じを抱きがちなのである。(「傑作探偵小説」序文/『推理小説詩学』より引用)

 これは、松本清張の言葉でも、レイモンド・チャンドラーの言葉でもない。ウィラード・ハンティントン・ライト、すなわちヴァン・ダインの言葉だ。荒唐無稽な設定、反リアリズム的な状況は、スリラーと呼ばれた怪奇・冒険色の強い作品には多かったが、探偵小説(デテクティヴ・ストーリイ)はきちんと現実に則って謎を設定しないと駄目だ、とヴァン・ダインは力説した。それ以前の怪奇的な要素や恋愛的な要素、すなわち古典的ロマンスを否定したところから、欧米の探偵小説黄金時代は形成されたのだ。

 「本格探偵小説」なる言葉が出来た当初は、あきらかに「本質的なもの」「正式のもの」という意味で、すなわち「探偵小説」そのものを指していた。「本格」という言葉は、「探偵小説」を他の「探偵小説もどき」から区別するために生まれたのであって、探偵小説を分類するために生まれたのではない。そして、「本格」=「探偵小説」は、「変格」と対峙させれば明確なように、リアリズム的な作品を指している。これが、今回の確認である。