戦後ジュヴナイル・ミステリの系譜(12)

■1950〜1954(昭和25年〜29年)その1/翻訳児童文学の振興

 「戦後児童文学の50年を概観する」(日本児童文学者協会編『戦後児童文学の50年』所収/文渓堂1996)の中で、鳥越信は日本の児童文学史を次のように年代区分している。

  • 1929〜38 冬の時代
  • 1938〜43 復興時代
  • 1344〜45 戦争による空白
  • 1945〜50 仙花紙時代
  • 1951〜59 不振・停滞
  • 1960〜  未明伝統克服

 「冬の時代」とは、『赤い鳥』を中心に花ひらいた「芸術的児童文学」が急激に不振となった時期に対して坪田譲治が名づけたものである。逆にいえば、この時期は『少年倶楽部』をはじめとした「大衆的・通俗的児童文学」の黄金期に重なる。佐藤紅緑佐々木邦高垣眸吉川英治大佛次郎南洋一郎山中峯太郎江戸川乱歩らの少年小説が人気を呼び、『少年倶楽部』の発行部数は1926年の25万部から1936年の75万部まで、右肩上がりに伸びた。

 こうした状況に変化をもたらしたのが1938年に施行された「児童読物ニ関する指示要綱」という文化統制であった。これは子どもに「悪影響」を及ぼすような「俗悪な本」を取り締まるためのもので、これにより「通俗的児童文学」の多くは規制を受け、逆に「芸術的児童文学」は「用紙の割当てその他で、便宜が与えられ」*1、「童話作家の中にはストックをはたいても追いつかぬというほどインフレ景気に酔う人も出るという有り様」*2となる。

 この状態は、戦争による空白を隔てて、戦後に引き継がれる。鳥越信のいう「仙花紙時代」はGHQによる検閲があった時代であり、それゆえ民主主義に反するような「俗悪文化」は取り締まられ、「芸術的児童文学」は庇護された。その中で『赤とんぼ』『銀河』『子供の広場』『少年少女』などの「良心的児童文学雑誌」の創刊ラッシュを迎える。戦前も戦後も、権力による文化統制は、「俗悪な読物」を排し、「良心的な読物」を庇護したのである。

 しかし、そうした「良心的児童文学雑誌」は1948年を境に急激に廃刊していき、1951年にはすべて姿を消した。かわって登場したのが『冒険活劇文庫』『少年少女冒険王』『おもしろブック』などの娯楽児童雑誌だった。1950年ごろからはじまる児童文学の不振・停滞の原因について、当時の児童文学者たちは「世の中が悪くなったから」と認識していた。

 こうした現象の背景には、「逆コース」と呼ばれた社会的荒廃があった。1947年1月、官公庁労働組合を中心に計画されたストライキがGHQの指令で禁止された頃から、占領政策は転換のきざしをみせはじめる。折りしも50年6月には朝鮮戦争が始まって再武装の必要が強調されるようになり、共産党員とその同業者を教職などから追放するレッド・パージが進められ、また51年9月、サンフランシスコで対日講和条約日米安全保障条約が調印されるにおよび、世界冷戦構造のなかでの戦後民主主義の欺瞞性がだんだんと明確になっていった。そんな不安な社会のなか、戦争玩具や好戦的読み物が流行し、子どもの精神は、より明快で、興味をそそる娯楽的なものにひきつけられていく。(奥山恵/ミネルヴァ書房『はじめて学ぶ日本児童文学史』)

 つまり、戦後しばらくは民主的な世の中に向かっていたが、1950年前後から反動的・好戦的な時代風潮となって、そのために「良心的児童文学」は排除され、好戦的な読物が流行した、という図式である。このような外的要因にのみ児童文学の不振を見ることに対して、鳥越信は次のように反論している。

たしかに、世の中は悪くなった。そのこと自体は決してまちがいではない。しかし、だから良心的・芸術的児童文学が圧迫され、発表の場を失い、創作単行本が出せなくなったのかどうか。そんなはずはない。なぜなら、どんなに悪い世の中であろうと、子どもたちはちゃんといるのだから、その子どもたちに支持されるような作品を書けば、こんな苦境におちいることはなかったはずだからである。(鳥越信/前出)

 また、瀬田貞二もこう述べる。

戦後の一時期を作った「良心的な」文学雑誌は、ことごとく「おもしろさ」の面で子どもたちにそっぽをむかれたのであり、作者の意図にもかかわらず、子どもの読者が予想されず、やみくもに大人の主張を子どものたちに強いたために(中略)、敗れさったのである。(「戦後の児童文学」1959/精興社『子どもの本 評論集(下)』所収)

 鳥越や瀬田の主張は、子どもたちにお題目を唱えるだけでなく、彼らが自ら求めるような「おもしろい」作品を創り上げる努力が、当時の児童文学者たちに足りなかったのではないか、というものだ。

 昭和初年の「冬の時代」と同じように、「不振・停滞」とは「芸術的児童文学」の側からの視点であり、この時期に国産児童読物を席巻したのは、「怪魔もの」と呼ばれた作品群であった。題名に「怪」「魔」の文字が多く使われることからこう名づけられた読物のジャンルは、探偵小説・冒険小説・怪奇小説・SFなどが含まれる。芸術的児童文学の不振の原因については、外的要因のみに帰することを戒める鳥越信も、「怪魔もの」流行の主原因は社会風潮に求めている。

 まず第一は、政治的反動化という時代風潮との関連である。流行性を追うという大衆小説の宿命的性格から、戦時下、軍国主義のお先棒をかついで、戦意昂揚の少国民読物を次々に生んできたのもこの大衆作家であり、雑誌であった。
 そのため、戦後しばらくは時勢に遠慮するかのように逼塞してきたが、25年(引用者注/昭和25年=1950年)を境に一気に息を吹き返した。この年は朝鮮事変がおこって日本もその基地となり、事実上軍隊といえる自衛隊の前身が発足するなど、政治的反動化が急激に顕在化しただけに、時流に敏感な大衆小説がそれを見逃すはずはなかったのである。(平凡社『別冊太陽/子どもの昭和史 昭和20年―35年』)

 大衆小説が流行性を追うのは、たしかに「宿命的性格」だろう。しかし、それを言うなら、「芸術的児童文学」もまた、流行性を追わざるを得ない。戦時下、軍国主義のお先棒をかついだのが大衆作家だけではなかったのは、当時の権力によって弾圧されたのが、まず「大衆的児童文学」だったことでも明らかである。「芸術的児童文学」は戦前は軍国主義的な政府によって、戦後は民主主義を標榜する占領軍によって、庇護されてきた。要するに、その庇護が1950年ごろからなくなった、あるいは少なくなった、というだけではないのだろうか。つまり、この頃から出版の規制がなくなり、より自由になったともいえるのだ。また、「怪魔もの」の中心ジャンルである探偵小説・冒険小説・怪奇小説・SFは、読者の隠された欲望をあらわにしたり、暗い感情を煽ったりすることは多いものの、それが必ずしも「好戦的」「反動的」な思想と結びつくわけではない。

 なにより、1950年はふたつの重要な叢書が創刊されたことで記憶される。1950年6月に刊行を開始した講談社《世界名作全集》と、同年の12月に最初の本を出した岩波書店の《岩波少年文庫》がそれだ。のちに200冊ちかい巻数*3となるこのふたつの翻訳叢書は、海外児童文学を幅広く紹介し普及させた画期的な企画として知られ、当り前だが「好戦」とも「反動」とも無縁だった。国産の児童文学が不振と低迷に喘ぐ中、翻訳児童文学が花ひらいていたのである。

*1:鳥越信/前出

*2:菅忠道「児童文化の現代史」/ミネルヴァ書房『はじめて学ぶ日本児童文学史』より孫引き

*3:《世界名作全集》は180巻、《岩波少年文庫》は第一期193冊