戦後ジュヴナイル・ミステリの系譜(13)

■1950〜1954(昭和25年〜29年)その2/翻訳児童文学の振興(承前)


 敗戦の翌年から1946年の4月の『赤とんぼ』を皮切りに、「良心的」児童文学雑誌が次々と創刊された。民主主義の広まりと共に活況を呈した児童文学界は、1946年3月に児童文学者協会を設立、平塚武二の「ウィザード博士」(1948)、筒井敬介の『コルプス先生汽車にのる』(1948)などの無国籍童話や、青木茂の『三太物語』(1951)などを生み、また従来の児童文学界には属しなかった作家からも、石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』(1947)、北畠八穂の『ジローブーチンの日記』(1948)、竹山道雄の『ビルマの竪琴』(1948)などの名作が発表された。しかし1948年頃から「良心的」児童雑誌は低迷し、1951年にはすべて廃刊に追い込まれる。その中で、唯一、華々しい活躍を続けたのが壷井栄で、光文社から出版された『母のない子と子のない母と』(1951)、『二十四の瞳』(1952)はベストセラーとなった。国内の創作が慢性的不況に喘ぐ1950年に、岩波書店の《岩波少年文庫》、講談社の《世界名作全集》という翻訳児童文学の叢書が刊行を開始し、さらには1953年5月からは創元社東京創元社)の《世界少年少女文学全集》全50巻が、1958年9月からは講談社《少年少女世界文学全集》全50巻の刊行がはじまった。1950年代は、翻訳児童文学の時代であったといえる。


 戦後児童文学界の流れをこのように捉えると、こうした一連の動きは、探偵小説ファンにとっては、どこかで聞いたことがあるように思えるだろう。そう、興味深いことに、この児童文学界の動向は、戦後の探偵小説界と奇妙にシンクロしているのだ。

 「良心的」児童雑誌が登場した1946年4月は、戦後はじめての探偵雑誌『ロック』(1946年3月創刊)、『宝石』(1946年4月創刊)が創刊された時期とかさなる。つづいて『トップ』『ぷろふいる』が復刊し、1949年までに『黒猫』『真珠』『Gメン』『妖奇』『ウインドミル』『探偵趣味』『マスコット』などの探偵雑誌が次々と創刊された。横溝正史木々高太郎大下宇陀児ら戦前作家の復活と、高木彬光山田風太郎香山滋、島田一男、大坪砂男ら戦後派作家の活躍に、角田喜久雄坂口安吾ら従来の探偵文壇以外からも傑作・名作が発表され、探偵小説界は活況を呈した。児童文学者協会が設立された三ヵ月後の1946年6月から始まった探偵作家の集まり「土曜会」は、翌1947年6月の探偵作家クラブ創設へとつながる。しかし、乱立した探偵雑誌は(「良心的」児童雑誌と同様に)1950年までにほとんどが廃刊となり、戦前からの歴史ある『新青年』も、この年の7月号を最後に姿を消した。創作も低迷し、探偵作家クラブ賞は1952年は水谷準の短篇「ある決闘」と江戸川乱歩の評論集『幻影城』、1953年と1954年は受賞作なしだった。そんななか、ひとり横溝正史のみが『八つ墓村』(1949-51連載)、『悪魔が来りて笛を吹く』(1951-53連載)、『悪魔の手毬唄』(1957-59連載)と、つぎつぎに名作を発表する。

 創作低迷の中、1950年から欧米の翻訳作品の紹介がさかんとなる。まず新樹社の《ぶらっく選書》(全18冊)が1950年1月からはじまり、5月には《雄鶏ミステリー》(全18冊)が発刊された。雑誌「宝石」も翻訳長篇の一挙掲載を試み、「別冊宝石」では1950年8月号の「世界探偵小説傑作選 第一集/ディクソン・カア傑作特集」を皮切りに、翻訳長篇を2〜3作まとめて掲載し、これをさらに発展させて、1952年からは全53巻となる「世界探偵小説全集」を企画した。創元社東京創元社)の《世界少年少女文学全集》が開始された1953年には、早川書房から《世界探偵小説全集》の刊行がはじまる。のちに《ハヤカワ・ミステリ》と呼ばれる一大叢書の誕生である。

 つまり、戦後すぐの雑誌の乱立、1940年代後半の活況、1950年からの創作の低迷と翻訳の振興、という流れが、探偵小説界と児童文学界でほぼ同時期に起っている。ただし、翻訳の振興の同時性については理由がある。これまで翻案はあっても翻訳作品がほとんどないのは、原作者に承認・送金の手段がないことから、進駐軍の許可がおりなかったためだという*1。したがって、1940年代にはきちんとした翻訳作品の刊行は、事実上、不可能だった。翻訳権の問題が解消したのは1949年末で、1950年から海外作品の紹介が一気に盛んになったのは、このためである。児童文学と探偵小説だけの現象ではなかったのだ。しかし、創作の低迷の同時性についてはなぜなのだろうか。

 前回も触れたように、1950年代の児童文学の不振・停滞とは「芸術的児童文学」側からの視点であり、「怪魔もの」と呼ばれた児童向け探偵小説・怪奇小説・冒険小説・SFはこの時期に急激に数を増している。児童向け読物全体では、けっして不振ではなく、むしろ活況を呈していた。それら作品の書き手は、久米元一など大衆児童文学を中心に書いていた作家だけでなく、探偵作家も少なからずいた。戦後に登場した新人作家も、いち早く児童書分野に進出している。香山滋はもともとの作家的性格が児童読物に適していたのか、処女長篇が児童向けの『怪龍島』(1948-1949連載)であり、島田一男は『怪人緑ぐも』(1949-1950連載)から児童雑誌に登場し、高木彬光も『覆面紳士』(1949)を書き下ろした後、児童読物を頻繁に発表した。この背景には、1948年から次々と創刊された娯楽児童雑誌の乱立があり、雑誌を埋めるため彼ら探偵作家達も駆りだされたのは間違いない。しかし、もう一つの背景として、1950年前後からはじまった探偵小説の不況は考えられないだろうか。雑誌は廃刊となり、単行本もなかなか出してもらえない。作品発表の場を失った探偵作家たちが、まだ活気のある児童読物界に雪崩れ込んでくる。この図式はほんの思いつきで、事実かどうかには検証が必要だが、児童文学界と探偵小説界の動向に連動性が見られるひとつの原因として、とりあえず挙げておく。

*1:中島河太郎推理小説通史」/『ミステリ・ハンドブック』所収