戦後ジュヴナイル・ミステリの系譜(3)

■1945〜1949(昭和20年〜24年)その3/芸術的児童文学と大衆的児童文学の融合

 長い間、日本の児童文学は「芸術的・文学的」な児童文学と、「大衆的・通俗的」な児童文学が、乖離したまま、それぞれ別物として発展してきた。少なくとも、そう言われてきた。これは、例えば作家でいえば小川未明押川春浪の違いであり、雑誌でいえば『赤い鳥』と『少年倶楽部』の違いである。児童向け作品のこの二つの系統は、かつては同列に扱われることはなく、同じ文脈で論じられることはなかった。片や「良心的な児童文学で、親や先生が子どもに薦めるものの、子どもたちはあまり喜ばない」作品群であり、片や「俗悪で商業主義の児童読物で、親や先生は眉をひそめるものの、子どもたちは熱心に読みふける」作品群、というわけだ。

児童文学や子ども向け雑誌の二極対立、すなわち、「教育性」対「娯楽性」、あるいは「芸術性」対「興味性」などと、その編集方針を色分けし、いずれを是とするかを競い合うことは、いまでは、あまりに古典的に過ぎて黴の匂いすら漂ってきそうに見える。しかし、つい、この二、三〇年前までは、こうした二極構造で斯界が把握され、そのどちらか、多くの場合、概して前者なのだが、そのいずれかが正当性を持ち、他方は邪道であると信じられていたのである。(本田和子『変貌する子ども世界』[1999/中公新書])

 1999年ですら「黴の匂いすら漂ってきそう」とされたのだから、それからさらに10年たった今では、「芸術的」と「大衆的」という概念そのものが崩れてしまい、児童文学だけでなくあらゆる創作物にたいして、こうした二極構造を見出すことは困難になっているし、そうした論調もすっかり影をひそめてしまった。しかし、本田が言うように、「つい、この二、三〇年前までは、こうした二極構造で斯界が把握され」ていた。いわゆる児童文学史は未明=『赤い鳥』の流れ、いわゆる芸術的児童文学の系譜をたどるのみで、『少年倶楽部』をはじめとした大衆的児童文学に触れることはなかった(し、かりにあったとしても否定的な文脈においてだった)のである。

 敗戦の翌年、1946年4月に創刊された『赤とんぼ』を嚆矢に、次々と林立した「良心的」児童文学雑誌は、もちろん、芸術的児童文学の流れで語られる。戦後の民主主義を理想的に謳うこうした雑誌は、しかし、数年でほとんどすべて廃刊となった。『赤とんぼ』は『こども世界』と誌名変更したものの、1948年4月号で廃刊となり、残る雑誌も1948年から1949年に次々と倒れ、最後まで残った『少年少女』も1951年12月号で終わる。かわって登場したのが『漫画少年』(1948年1月創刊)、『冒険活劇文庫』(1948年8月創刊/のちの『少年画報』)、『東光少年』(1948年12月創刊)、『少年少女冒険王』(1949年1月創刊)、『少女』(1949年2月創刊)、『少年少女譚海』(1949年4月創刊)、『おもしろブック』(1949年9月創刊)などの娯楽児童雑誌だった。まさに絵に描いたような、廃刊と創刊、二つの児童文学の交代劇がわずか二年間になされている。この交代劇については、かつては娯楽児童雑誌の俗悪性が槍玉にあげられ、現在は反対に、「廃刊になった雑誌群は、戦後民主主義を教条的に掲げただけの、いかにも魅力に乏しい作品の掲載場所に過ぎず、子どもたちに背を向けられたのも当然と映じる」*1というような、文学的児童雑誌の魅力のなさが挙げられるケースが多い。

 しかし、別の流れにあるとされたこの二つの児童文学は、あるいは児童文学雑誌の編集方針は、それほどかけ離れたものだったのだろうか。

 根本正義は「大衆児童文学の戦後史」*2の中で、戦後の娯楽児童雑誌の中心的存在だった光文社の『少年』(1946年11月創刊)の初期の目次構成を示して、娯楽的な読物と教育的な記事が並存していることを指摘し、「芸術的児童文学雑誌とまったく同じ編集がなされたといえる。大衆的児童文学雑誌もまた教養と娯楽を共存させたのが、昭和二十年代初頭の特徴でもあった」とした。根本が「大衆的児童文学雑誌もまた」としたのは、ほかでもない。「良心的」児童雑誌の草分けである『赤とんぼ』の編集に携わった藤田圭雄が、同誌の創刊にあたり、戦前に同じ実業之日本社から出ていた娯楽児童雑誌『日本少年』を思い起こした、という回想のゆえである。根本は「『日本少年』『赤とんぼ』の両立でなくては、われわれの考えているような仕事は成立しない」*3という藤田の考えに注目し、

大衆児童文学と芸術的児童文学の融合による、新しい児童雑誌の編集の試みがなされたという意味で、昭和二十年代の前半は両方の児童文学が、ひとつの児童雑誌の中に両立していたという、まさに特異な時代だったといえるのである。

 とした。たしかに『赤とんぼ』の頁をめくると、創刊号から高橋健二の訳で、ケストナーの『飛ぶ教室』が、原作の挿絵をそのまま用いて連載されている。残念ながら途中で、「都合により」中断しているものの、これが同作の最初の訳であった。この作品が、すでに戦前に翻訳が出ていた同じ作者の『エーミールと探偵たち』と共に、娯楽性と教育性を兼ねそなえた傑作であることは、論をまたないだろう。また、6月号から終刊まで毎号童謡を発表し続けたサトウ・ハチローは、戦前の『少年倶楽部』で活躍した人気ユーモア作家であり、この時期、彼の作詞した流行歌「リンゴの唄」が大ヒットしていた。『銀河』の編集に加わった吉田甲子太郎も、戦前から『少年倶楽部』に作品を発表している作家のひとりだ。

 二上洋一もまた、『少年小説の系譜』(幻影城/1978)において、根本と同じ指摘をする。

 終戦直後の昭和二十年、二十一年頃、児童読物は、文学的児童文学と大衆的児童文学が同一時点に共存するという、極めて特異な相貌を示していた。
(中略)
 少年小説発生当時の、前近代的、未分化の状態は別として、文学的児童文学と大衆的児童文学が、形式的にも内容的にも、テーマもモチーフも、手法も読者対象まで、これ程接近した例は、かつてなかった。

 『赤とんぼ』に1947年から1948年まで連載されたのが、竹山道雄の『ビルマの竪琴』である。正統的な児童文学史においても、「この時期もっとも注目すべき作品」*4とされるこの作品について、二上洋一はこう述べる。

 戦後の少年小説の金字塔が「ビルマの竪琴」であることは、先ず異論はあるまい。
(中略)
 私は、秀でた少年小説は感動の凝縮があると書いてきた。「ビルマの竪琴」は、随所に、主人公の水島上等兵に投影された少年の心象に感動を呼び起こすエピソードを象嵌し、共感の涙を流させたのである。ここには、少年の主人公は登場しない。しかし、私は、事ある毎に、少年小説に少年の主人公が不必要であると書き続けてきた。少年小説に取って必要なのは、読者である少年が自己を投影出来る主人公と、感動の凝縮が鏤められていることだと……。
 その意味で、この作品に、戦後の少年小説の中のベストの位置を与えることに、一瞬の躊躇もないのは当然であろう。(『少年小説の系譜』)

 二上洋一が「少年小説」というとき、それは押川春浪からはじまり、『少年倶楽部』で花ひらいた一連の「血わき肉おどる」小説群のことである。それは、『少年小説の系譜』で論じられた作家たち、吉川英治高垣眸佐藤紅緑大佛次郎山中峯太郎南洋一郎江戸川乱歩海野十三などなどの名前を見れば一目瞭然であろう。その系譜の戦後のベストが、「良心的」児童雑誌に掲載された『ビルマの竪琴』であることに、「一瞬の躊躇もない」というのだ。「良心的」児童雑誌を、「戦後民主主義を教条的に掲げただけの、いかにも魅力に乏しい作品の掲載場所」とするような視点は、娯楽児童雑誌を「俗悪な商業主義の産物」と断じるのと同じように、ものごとの一面しか捉えていない可能性はある。

 『ビルマの竪琴』を読むと、そこにさまざまな「少年小説」のスタイルを見出すことができる。第一話「うたう部隊」では、イギリス軍に追われた日本兵たちと現地住民との、歌と踊りによる一夜の交流から、一転して、イギリス軍に包囲されるショック。いまだ祭りに浮かれているように見せて、歌いながら爆薬を回収するサスペンス。そして、戦いの直前に訪れる意外な状況の感動がある。また、第二話「青い鸚哥(インコ)」では、「肩にインコを乗せたビルマ僧」が『宝島』の海賊シルバーを思い起こさせるし、第三話「僧の手紙」には、主人公の水島上等兵が人食い人種につかまり生贄にされそうになったり、酋長の娘婿にされそうになったりと、秘境冒険譚風な一面もある。しかし、ここではミステリとしての側面を見てみたい。

 『ビルマの竪琴』のミステリ的な要素といえば、まず第二話「青い鸚哥(インコ)」の構成があげられる。あくまで抵抗する別隊の降伏を促すために向かった水島上等兵が消息不明になり、しばらくして、水島とそっくりのビルマ僧が見かけられる。水島は生きているのか。生きているのだとしたら、なぜ隊に戻らないのか。この謎は、探偵役の推理で解けるわけではなく、水島上等兵の手紙による告白でわかるのだから、当り前だが、この作品をミステリ(探偵小説)と呼ぶことはできない。しかし、一種のホワイダニットが物語の中心的興味となっていることは確かであり、テーマを浮かび上がらせるのに、ミステリ的な手法がうまく活かされているといえるだろう。新潮文庫版に収録された「作者のことば」に、「これから推理小説のようなサスペンスを工夫したのですが、これはたのしくもあり、むつかしくもあることでした。」とあり、これが意識した手法であることははっきりしている。

 『ビルマの竪琴』のミステリとしての側面として、もうひとつ重要な点が、おなじ「作者のことば」の中にある。それは、なぜ物語の舞台をビルマとしたのか、という構成の手順である。竹山道雄は最初、この物語を中国を舞台に書こうとした。しかし、「合唱による和解」というアイディアを活かすためには、それではうまく書けないことに気がついた。なぜなら、「日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです。(中略)共通の歌は、われわれが子供のころからうたっていて、自分の国の歌だと思っているが、じつは外国の歌であるものでなくてはなりません。」そこで選ばれた歌が「埴生の宿」であり、それならば舞台はイギリス軍のいるビルマでなくてはならない、とした。この構成方法は、結末から発想して作品全体の効果的な構成を行なうという、ポーのいう「構成の原理」に則っている。つまり、『ビルマの竪琴』は「結末から発端へと構成する」ミステリと同じ手順を踏んで書かれた作品だといえる。

 この時期の「良心的」児童雑誌に掲載された作品には、このように娯楽要素を兼ねそなえた作品もあった。かたや『少年倶楽部』(1946年4月より『少年クラブ』)には、編集者が「まさに純文芸でしたね。」*5と回想する阿部知二の『新聞小僧』(1948年〜連載)が掲載された。ほかにも、福田清人の『岬の少年たち』(1947/書下ろし)、白川渥の『海峡をわたる歌』(1948年〜『少年』連載)など純文学系作家による少年小説が目だつのは、「大衆児童文学作家の総崩れ〜真空状態」*6という背景があってのことだろう。1950年頃から、南洋一郎高垣眸ら戦前の大衆児童文学作家が活動を再開し、また探偵小説界から登場した香山滋高木彬光、島田一男ら戦後作家が児童ものに進出してくる。おしよせる漫画の時代に対抗するため、その内容は、より刺激的に、低俗に、俗悪になっていったかに見える。一方、芸術的児童文学は長い「冬の時代」を迎える。この両者の間隔は再び開いていった。しかし、きわめて短い期間ではあったが、芸術的児童文学と大衆的児童文学が「同一時点に共存」した時代があったことは、記憶にとどめておくべきである。

*1:『変貌する子ども世界』(前出)

*2:三一書房『少年小説大系』月報連載/二上洋一編『少年小説の世界』(沖積舎)所収

*3:「『赤とんぼ』の創刊から『少年少女』の廃刊まで」(『新選日本児童文学3 現代編』小峰書店/1959) ただし引用はすべて「大衆児童文学の戦後史」から。

*4:奥山恵/鳥越信編『はじめて学ぶ日本児童文学史』(ミネルヴァ書房)p298

*5:木本至『雑誌で読む戦後史』(新潮選書/1985)

*6:紀田順一郎「一陣の爽風」『少年小説大系11/戦後少年小説』解説