『裁くのは俺だ』ミッキー・スピレイン


 ミッキー・スピレインが死んだのは7月17日のことだから、もう一ヶ月以上も前のことだ。アメリカでは知らず、日本では追悼企画のひとつもないようだ。先日発売のミステリマガジン10月号でも、死亡ニュース以外に追悼記事がなかったから、もうどこもやるところはないだろう。


 スピレインはとっくに忘れられた作家なのであろう。『世界ミステリ作家事典[ハードボイルド・警察小説・サスペンス篇]』のスピレインの項を読んでも、通り一遍の記述しかなく、熱意が感じられない。

 そこで(というものよくわからないが)、今さらであるが個人的な追悼イベントとして、処女作の『裁くのは俺だ』(1947) を読んだ。これで三回目ということになる。

 この作品を僕が最初に読んだのは、たぶん1970年代の初め頃だろう。年齢的に《スピレイン旋風》と呼ばれた同時代の雰囲気は知りようもないから、この作品が発表当時どれほど衝撃的だったのかは、その頃の事を語っている人たちの文章でしか、うかがい知ることはできない。

 スピレイン擁護の文章としては、今、手元にあるのは『名探偵読本/ハードボイルドの探偵たち』(パシフィカ/1979)に収録されている鏡明の「マイク・ザ・ハードボイルド・ハマー」と、小鷹信光の『ハードボイルド・アメリカ』(河出書房/1983)の「マイク・ハマーの暴力世界」がある。どちらも、初期の七作(うち、ハマーものは六作)への熱い思いを語り、約十年後の『ガール・ハンター』(1962) で復活した後のハマーには冷たい視線を送る。

 しかし遅れてきた読者としては、60年代の「悩めるハマー」の方に、むしろ親近感を覚える。最初に読んだ1970年代でも、あきらかにスピレインは時代遅れだった。とくに、初期の作品によりそれを感じた。スピレインを語るときに必ず言われる「セックスとサディズム」を期待して読むと、肩透かしをくう。僕も、最初に読んだときは、それを期待して、がっかりしたものだ。暴力シーンも、エロティック・シーンも、所詮1940年代のもので、いまさらこの程度の内容で衝撃を受けるひとなどいないだろう。とくに「セックス」については、どの作品にも、せいぜいが濃厚なキス・シーンがあるだけで、色情狂の美女が裸にはなってくれるが、ベッド・シーンはまったくない。なにせ、『裁くのは俺だ』でも、ほとんど裸同然の姿でいる美女に抱きつかれて、

「マイク。あなたが欲しいわ」

と囁かれているのに、

「いけないよ、君。俺たちが結婚するときがくるよ。それが、それが正しいことなんだよ」

と、何もしないのである。驚くべし、マイク・ハマーは結婚するまで貞操を守る男だったのだ!

 これは、1947年の大衆小説では、ぎりぎりのコードだったのだろうか? しかし、1950年代の通俗ハードボイルドでは、大抵の探偵が事件で知り合った綺麗なお姉さんとベッドを共にしている。マイク・ハマーは、1950年代になってからの作品でも、60年代に復活してからも、作品の中で最後の一線(古いね、言い方が)を越えたことはないはずだ。(60年代の作品をすべて読んでいるわけではないが)まさに、おカタイ探偵なのである。

 おそらくスピレインにとっては、実際に女と寝ることよりも、女に欲情するほうが重要だったのだろう。暴力についても、「奴のヘソの下の内臓の中に、弾をぶち込んでやる。そいつが誰だろうと、必ずな」という思い、憎しみの感情を抱くこと自体が、実際に相手を殴ったり撃ったりすることより、おそらく重要なのだ。灼けつくような劣情、自分で制御できないような憎悪など、登場人物の過剰な感情を、何度も何度も繰り返し書くことに意味があったのだ。

 だから、ハメット式の「心情を語らず、行動で内面を表現する」ハードボイルドの流れから言うと、明らかに異質である。マイク・ハマーは「語ることの出来ない複雑な内面」など持っておらず、持っている単純な内面=感情は、余すところなく語ってくれる。

 『裁くのは俺だ』という作品は、ハマーが関係者の間を右往左往して死体と裸女に遭遇するばかりのプロット、という非難には反論できないが、そうは言っても、ラスト・シーンはやはり好きである。このシーンは、ハードボイルド・ミステリの魅力を、もっとも典型的にあらわしていると感じる。

 ところで、今回、読み直してみて、中田耕治の訳文はかなり違和感があった。とくに最後のハマーの台詞は、

「楽なものだよ」と俺はいった。


となっている。

 僕の記憶では、ここは、「簡単なことさ」だったのである。で、気がついたのだが、先の鏡明小鷹信光の文章では、原文の引用を、翻訳からではなく、自分で訳して使用しているのだ。お二人とも原書で読んでいるに違いないが、通常、翻訳書がある作品については、その訳文を引用するのが慣わしだろう。もしかすると、中田耕治の訳文が気に入らない、という推測もなりたつ。

 もうひとつ、ハヤカワ文庫の表紙も、僕はあまり好きではない。生頼範義は嫌いではないが、この表紙は駄目である。銃を持つマイク・ハマーの小指が立っているもの、いかがなものか。やはり、原書のペイパーバックの表紙が最高だろう。

裁くのは俺だ (ハヤカワ・ミステリ文庫 26-1)

 この二つから明らかなように、僕のスピレイン体験は、実際の読書からより、スピレインについて熱く語る人たちの文章や、さまざまなメディアの情報による妄想で造られた部分の方が大きいようだ。「俗悪なハードボイルド」への愛着も、同じである。

 そんな「スピレイン妄想」で思い出すのは、映画「バンド・ワゴン」(1953) の「ガール・ハント・バレエ」である。で、最近、たいへんお安く発売されたこの傑作ミュージカルの「ガール・ハント・バレエ」を見直した。やっぱり、いいっす。

バンド・ワゴン [DVD]

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 このシーンの最初に映し出されるペイパーバック Girl Hunt の表紙に書かれた作者名はミッキー・スター。スピレインの作品世界を茶化してはいるものの、アステアやシド・チャリスのかっこよさは、あきらかにスピレイン世界へのオマージュである。シド・チャリスはハードボイルド・デイムズを見事に体現している。「バンド・ワゴン」が作られた1953年は、ちょうどスピレインが10年の沈黙にはいった年である。すでにこの時点でマイク・ハマーというキャラクターは、パロディという形でしか、そのかっこよさを感じられなくなっていたのだろう。10年後に復活するマイク・ハマーの長篇の題名が Girl Hunters というのも、偶然とは思えない。


 ところで、マイク・ハマーの秘書ヴェルダは、長い間、ブロンドだと記憶違いしていた。今回読み直してみて、「石炭のように黒い髪をページ・ボーイ・カットにして」いるのである。ページ・ボーイ・カットというのは、調べると、ボブ・カットの一種で、下記のページに「おかっぱと云うのは、大体ページ・ボブの長さです。」という文章があった。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=193052

 「ガール・ハント・バレエ」のシド・チャリスは、黒い短めの髪である。これをページ・ボーイ・カットと呼んでいいのか、ファッションにうとい僕は分からないが、ヴェルダのイメージは、シド・チャリスで決まりだ。