『私家版・ユダヤ文化論』内田樹 文春新書

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

 この本を知ったのは、夏目房之助のブログ「で?」に「内田樹矢作俊彦」という文章が載っているのを見たからだ。

http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2006/08/post_a550.html


 で、内田樹に興味をもったのだが、考えてみると、その前にわたしはこの人の本を読んでいた。やはり文春新書の『寝ながら学べる構造主義』という本で、こちらはそれほど感心しなかったが、今回の『私家版・ユダヤ文化論』は大変に面白かった。




 この本を読むまで知らなかったが、「ユダヤ人」というのは一義的な定義ができないらしい。可能なのは、消去法による確認だけなのだそうだ。そうだったのか!

 例のナチス・ドイツのニュルンベルグ法は、1215年にイノケンティウス三世がさだめたユダヤ人規定「その血のうち八分の一にユダヤ教徒を含むものをユダヤ人とする」に基づいているらしいが、当人の信教にかかわりない規定のため、いかなる民族的宗教的アイデンティティをもっていても「ユダヤ人」とされるために、ますます「ユダヤ人」という概念が混乱してしまったという。

 けっきょく、サルトルの言ったという

ユダヤ人とは他の人々が「ユダヤ人」と思っている人間のことである。

と定義するしかないものらしい。

 これは、わたしにはたいへん興味深い話だった。というのは、最近、ミステリの分野で起こった「本格ミステリ」定義論争を思い浮かべてしまったからだ。

 これにならって言うなら、

となる。(以上の話の流れには、強引な詭弁が混じっています)


 このほかにも、思想・科学・音楽・芸能などの分野で革命的な仕事をなしてきた人々のなかに、ユダヤ人のいる割合が圧倒的に多い、ということから、

ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。

という結論を導き出す論理の流れは、なんというか、きわめてミステリ的な論理の面白さに満ちている。

 著者は反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎むのは、ユダヤ人をあまりに激しく欲望していたからだ、と結論する。憎しみは愛情をより深める働きがある。

 私たちは愛する人間に対してさらに強い愛を感じたいと望むとき無意識の殺意との葛藤を要請するのである。葛藤がある方が、葛藤がないときよりも欲望が亢進するから。
(中略)
 反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎むのは、それがユダヤ人に対する欲望を亢進させるもっとも効率的な方法だからという理路が見えてくる。
 反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうるかぎりもっとも効率的な知性の使い方を知っていると信じているからである。ユダヤ人が人間にとってもっとも効率的な知性の使い方を知っているのは、時間のとらえ方が非ユダヤ人とは逆になっているからである。そして、そのユダヤ人による時間のとらえ方は、反ユダヤ主義者にとっては、彼らの思考原理そのものを否定することなしには理解することのできないものなのである。


 じつは以前に加藤隆の『一神教の誕生』(講談社現代新書)という本を読んだとき、ユダヤ教の思考形態と一部の本格ミステリの思考形態の類似を感じて、クイーン=アシモフ=ケメルマン=ヤッフェという「ユダヤ系論理偏愛ミステリの系譜」というのを思いついたのだが、今回も同じようなことを思った。

 ところで、「ユダヤ人」=「本格ミステリ」みたいなことを書いたが、こういうアナロジーをすると、「本格ミステリ受難の歴史」を思い浮かべる人もあるかもしれない。しかしユダヤ人が迫害されたのは歴史の事実だが、「本格ミステリ」が迫害を受けたというのは、単なる妄想である。「本格ミステリ受難の歴史」の語り口は、むしろ、近代になってユダヤ人を迫害する理由となった陰謀史観(われわれの没落には何者かの意志が働いている)そのものだろう。
 陰謀史観は急激な社会変化への拒否反応、嫌悪感から発生する、と説明されると、なんだか分かった気になってしまうのも、実を言うと、ちょいと危険だが。