「CRITICA」特別号


暮れに手に入れた「CRITICA」特別号の「探偵小説批評の10年」を読んだ。
昨年の6月に花園大学で行われた笠井潔巽昌章法月綸太郎の鼎談をまとめたものだ。

いずれの論者も、相当に長く意見を語っており、かなり読み応えのある内容であった。例の『容疑者Xの献身』の評価が物議をかもし出している頃だから、それについての言及がかなりある。僕が興味深かったところを以下に抜書きしてみる。

法月 「端正な本格」を支持していた読者は、『容疑者X』を擁護する方向に廻ったように「見える」ということですね。
(中略)
巽 もともと僕にとっては本格というのは端正でないもの、(中略/京大ミステリ研の先輩だった稲生平太郎が)クイーンの作品の論理をビルにたとえて、「下から見るとちゃんとして見えるけども正面からは歪んで見える」と書いていたんですね。論理のひとつひとつは辻褄があっているけども、全体として変なものを作っているんじゃないかと。それがミステリの論理を見る時の僕の原体験でした。

僕は知らなかったが、「端正な本格」という言葉が一種のスローガンになっていた時期があったらしい。それで、この言葉をよく耳にするようになったのか。
また、巽はこうも言っている。

巽 第三の波が本格ミステリに対する運動であることは否定しませんが、それが本当に原理主義的な、ガチガチの本格の振興運動だったかというと、それはその一つ前から読んでいた人間にとってはちょっと違うんですね。例えばうちの僕より上の先輩連中に言わせると、新本格は本格としてはぬるいと彼らは思っています。(中略)いわゆる第三の波が起こってくる少し前、あるいはもっと前の時代にどういうものが書かれていたか、あるいは当時のコアな読者がどういう認識を持っていたかということが、第三の波が本格の運動として盛り上がったことによってかえって見えなくなっちゃうんですね。(中略)そういう時代を知っている人間からすると、第三の波でいきなり本格が盛り上がったという考え方には違和感がある。(中略)昔の本格好きって館とかにはこだわりがなかったと思います。(中略)それより前の、本当に日本のどぶ板的な日常を踏まえながら本格を書いていた人たちも尊敬されていたわけです。第三の波を前提というか、第三の波から本格が始まったみたいな議論では見落とされてしまう部分です。

この部分は、ほとんどそのまま、共感できる。僕自身がそういった旧世代なわけだし、まわりに「新本格はヌルイ」という方を何人も見ていたからだ。
こういった旧世代の「本格原理主義者」について、笠井は「想像でしかいえませんが」としながら、次のように返すのだが、この部分は、どうも僕にはよくわからない。

笠井 巽さんのいわゆる本格原理主義者は探偵小説に根本的な思い違いがあるのではないか。推理小説は「推理」プラス「小説」であるというような。それは違います。探偵小説は論理パズルに小説の衣を着せたものではない。むしろ論理パズルの対極にあるのが探偵小説だと、僕は考えています。(中略)論理パズルは大昔からあったのに、探偵小説がジャンル的に自立したのは第一次大戦後です。原理主義者には、このことをよく考えて貰いたい。

僕は「いわゆる本格原理主義者」ではないけど(べつの意味で「本格原理主義者」だと思ってはいるが)、「むしろ論理パズルの対極にあるのが探偵小説だ」とか「探偵小説がジャンル的に自立したのは第一次大戦後」というのがどういう意味なのか、これだけの発言では理解できない。一度、笠井潔の評論本をきちんと読んだほうがいいのだろうか?

ここしばらくの、本格ミステリ大賞を受賞している作品が、「クセ玉本格路線」だとして、それについて言及された部分。

巽 クセ球本格路線というのは、戦後の海外ミステリ、厳密にはブレイクの『野獣死すべし』あたりまでさかのぼるかもしれないけれども、構成的にはクセ球で、舞台や登場人物は地味なリアリズムであると。海外ミステリでは戦中から戦後にありましたね。それを日本に輸入しようとした人が佐野洋らであったと思いますが、(中略)要するに、佐野洋とか都筑道夫とか、「クライム・クラブ系」のクセ球で、かつ小説的におどろおどろしくないものを目指そうという動きがあったんですね。そういう方向性を肯定する動きからすれば、新本格というのは幼稚でダサいということにもなるだろうと思います。新本格バッシングが出た時の批判のかなりの部分はそういう方向から来たのではないかと僕は見ています。(中略)かつて新本格バッシングの時に逆に理想とされてたようなものが『容疑者X』の中に見込まれているんじゃないか。

僕の『容疑者X』の感想は、ほぼ、ここれ言われている「クライム・クラブ系」のクセ球という感じであった。だから評価した。まさに、僕は、「そういう方向性を肯定する」人間であり、巽がここで述べているような意味で、「新本格」が嫌いだった。
もうひとつ、「新本格」になじめなかったのは、「異世界」的な要素である。現実をまったく無視した人物や設定を出すという手法は、ミステリとしては邪道である、という意識がぬぐえない。SFやファンタジーならいいんですよ。でも、ミステリ、それも「本格」と言われるのは、どうしても納得しずらいものがあった。

笠井 「新本格」は論理小説としての本格と同時に、戦前からの変格の復興をめざしていた。

そうだったのかなあ? でも「変格」とも違うような気がする。やはり「異世界ファンタジー」を読むときの感触にもっとも近い。

ところで、笠井の次の発言はどうなのだろう。

笠井 六〇年代の都会的で洒落たセンスの青少年は、社会派ミステリーや海外派のミステリをほとんど無視していました。なにを読んでいたのかというと、まずSFです。あるいは早川の「異色作家」シリーズとか。ミステリ界では話題だったかもしれませんが、「クライム・クラブ」はこうした傾向の小さな一部にすぎなかった。(中略)都会派青年自体が、まだ貧しかった戦後日本の都筑、小泉(喜美子)世代と、高度経済成長を通過した次の世代のあいだで、大きく変貌していた。

60年代に、すでに都筑・小泉路線の「洒落たミステリ」は古かったのか? 僕もここらあたりは同時代的に知らないので、これが笠井の個人的な見解か、それとも同世代的にある程度共有されていた意見なのか、わからない。では70年代に都筑・小泉を「洒落ている」と感じていた僕は、ソートーにズレた感覚の持主だったのかもしれない。否定できないけど。

笠井 探偵小説は原理的にリアリズム小説的な文学観と相容れないと考えます。たとえば『容疑者X』のリアリズムを語る人がいますが、実際に新大橋あたりに行けばわかるように、あの風景描写はノンリアル、ようするに作りものです。(中略)古い東京のセピア色の雰囲気を演出するため、作者は描写を操作しています。探偵小説とリアリズム小説は両立しないという実例ですね。

うーん、ミステリはリアリズム小説である、と思っているし、そうあらねばならない、と思っている僕とは、まったく逆の意見である。まあ「探偵小説」はミステリや推理小説とは別ジャンルのものだとするのなら、それはそれでかまわないんだけどね。

もしかしたら、文学部でもない僕には、「リアリズム小説」が何なのか、分かってないのかもしれない。

しかし、作者が描写を操作してはいけない、というのなら、どのような小説も書けないと思うのだが。どんなリアリズム小説であれ、現実のどこかを切り取って描写し、どこかを描写しないわけではないのか。あらゆることを描写するのは不可能である。例えばカメラで風景を撮る場合も、どこを切り取るかによって、おなじ風景(=現実)がさまざまに見える。その切り取り方が「ほんとうらしく」見えれば、リアリズムというのだと思っていた。

ただ、最後に笠井が自らの「大量死理論=二〇世紀探偵小説論」について語った部分、この理論で割り切れない作家があるということを認めつつも、

笠井 ただし割り切れないものまで割り切ろうというのが探偵小説の精神で、否定神学的な二〇世紀精神だったと僕は思っています。

と語る部分は、共感する。