近況

しばらく、このブログもほったらかし。
あまり間を空けるのもナンなので、適当なことを書いておこう。

「ミステリの歴史」はしばらくおやすみ。「屋根裏通信」の方に、これまでの文章をまとめている最中である。


最近、本も映画(DVD)も、ほとんど読んでも見てもいない。
読んだのは、探偵小説研究会の同人誌「CRITICA」の一部の文章ぐらいか。

↓ここのサイトで、

http://blog.taipeimonochrome.ddo.jp/wp/markyu/index.php?p=1336
http://blog.taipeimonochrome.ddo.jp/wp/markyu/index.php?p=1337

紹介された「CRITICA」に掲載された千街晶之の文章が読みたくなって、つい買ってしまった。
ネットで簡単に買える。→ http://www.geocities.co.jp/tanteishosetu_kenkyukai/critica.htm

いやあ、『容疑者X』から始まった騒動は、まあだ続いていたのですなあ。
これにかかわるものとして、千街晶之だけでなく、千野帽子、田中博の文章が掲載されている。もちろん、すでに論じられている内容は、二階堂黎人と関係なく進んでいるのだが、しかし、あいかわらず、二階堂に引きずられている部分も多く、ニヤニヤしながら楽しませてもらった。千野帽子も、「本格評論の終焉」のトンデモ論に、いちいちまともに答えなくてもいいのに。でも、反論したかったんだろうなあ。まあ、わかる。簡単に論破できるし。

で、千街晶之の「崩壊後の風景をめぐる四つの断章」。自分が嫌いな人間の悪口は、やはり楽しめる。千街晶之がこの文章を書いた意図がどこにあろうと、これは内輪モメである。一部は弱いものイジメである。ハタからみたら、「本格業界」(?)の内輪もめは、程度が知れる、って思われてるだろうが、でもいいんだよ。面白いんだから。でも、将来の日本ミステリ論争史に『容疑者X』騒動は載るのかね。載るんだろうな、たぶん。

「崩壊後の風景をめぐる四つの断章」で、チェックしておきたいこと。

 有栖川有栖の「赤い鳥の囀り」(HMM2006-8)に評論家が違和感を持たなかったことへの問題提起。有栖川の「赤い鳥の囀り」は、笠井論があまりに自分たち作家の創作意図とかけ離れていることを指摘して、私たちは「本格ミステリの快楽を知り、無邪気に創作に手を染めた」にすぎないので、笠井が言うような「閉塞感を受けとめるために、赤く染まって見せたつもりはない」というものだ。これに対し、千街は、作家がそう言うのはかってだが、評論家はそれを認めてはいけないという。

有栖川の意見を認めることで自分たちの評論家としての今度の活動に縛りをかけてしまったことに気づいていないのだろうか。(中略)「赤く染まって見せたつもりはない」発言を認めるということは、作者の意図通りの解釈しか評論家は書いてはいけないということに等しいのだが……。

 笠井の言い方は、「探偵小説はこうでなくてはならない」的な押し付けが強く、反撥したくなるのはわかる。乱歩が前田河広一郎の説に反撥したようなものだろう。(プロレタリア文学擁護の立場から、探偵小説のブルジョア的要素を糾弾した)

 もちろん、小説に「こうでなくてはならない」ものは、なにもない。作者は何をどう書こうと、自由である。しかし、その作品に対して、評論家は(つまり読者は)何をどう読みとろうと、これも自由なのである。と千街晶之は言っているのだ。


 もうひとつ。芦辺拓が『本格ミステリー・ワールド2007』で言明したという以下の文章。

トリックの驚き、ロジックの痛快味、そして何より《物語》の面白さから、多くの読者――いま現に少年少女であり、かつてそうであった人たちを遠ざけてしまうぐらいなら、いっそ「本格」なる看板なり原理原則を引っ込めてしまってもいいというのが現在の本音です。

 千街晶之も「あの芦辺拓がこのようなことを言わざるを得ない状況なのか」と「粛然たる思い」になっているが、そうだったのか。「本格」という看板は、もう「少年少女を遠ざける」ことになっているのか。まあ、「新本格ブーム」以前にもどった、というなら、そういう「冬の時代」(笑)は既に経験しているし、越冬の準備は万端だが、ミステリ全体が低迷するのは、よろしくない。

 とはいえ、海外ミステリはもうずいぶん前から「厳冬」だからなあ。それなのに、これだけ本が出るのは、いったいどういうことなのでしょう?