ドイルの十年


ええ、ほんとに久しぶりの追加。
サイトの方で書いていこうかと思ったけど、とりあえず、このブログには下書きとしてアップします。


■ドイルの十年――1891〜1900年/イギリス(その2)

 1891年から1900年までの短篇探偵小説のシリーズで、アーサー・モリスンのマーチン・ヒューイットに続いて重要なキャラクターは、二人いる。M・P・シールのプリンス・ザレスキーと、E・W・ホーナングのラッフルズである。


 M・P・シール M(atthew) P(hipps) Shiel (1865-1847) は西インド諸島生れ。ロンドン大学キングズ・カレッジを卒業後、セント・バーソロミューで医学を学ぶ。しかし、外科手術を研究していた際に、「手術するのがたまらなくいやになって、外科医になるのを断念し、ある日寝ころんで空を見ていたところふと〈プリンス・ザレスキー〉の構想が頭に浮かび、書いてみようという考えを起した」(シール著『科学、人生、文学』/A・E・マーチ『推理小説の歴史』からの孫引き)。こうして、Prince Zaleski (1895) が書下ろしで出版された。結局、医者にはならず、文筆で身を立てることになり、1896年の The Rajah's Sapphire 以降、SF、怪奇小説、思弁小説、ミステリーの長篇を、ルイス・トレーシーとの合作名ゴードン・ホームズを含め、30冊近く発表した。短篇も多い。

 シールはのちにみずから新興宗教を興したり、晩年は長大なイエス伝を執筆していたという。また、EQMMの第1回短篇ミステリ・コンテストに応募しようと、1945年(50年ぶり!)にプリンス・ザレスキーものを執筆。作品を郵送すべく徒歩(!)で最寄の町まで赴いたが、老人の体力の限界を越えたのか気絶(!)し、原稿は紛失。(シールの死後に、この原稿は見つかっている)これらのエピソードでもうかがえるように、相当に奇矯な人物だったようだ。

 処女作の『プリンス・ザレスキー』も、一筋縄ではいかない作品集である。まず、その文章だが、創元推理文庫『プリンス・ザレスキーの事件簿』に、訳者の中村能三が次のような「あとがきに代えて」という文章を寄せているほどである。

本書の校正を終わり、文字通り肩の荷をおろした気持である。稿を起して以来一年有余、原作者の文章は晦渋を極め、自らの無能を恥じて幾度筆を折ろうと思ったか知れなかった。翻訳生活三十年の訳者も、シール氏の文章は手応えどころか、遂には嘔吐と憎悪と、時としては敵意をすら覚えることがあった。

 さらに、松原正明による訳注が数百あるという、とんでもない作品なのである。

 『プリンス・ザレスキー』は、『娯楽としての殺人』では「作者からこれは探偵事件だと主張されたが、いまからみるとむしろミステリー小説にちかい」とされている。ここでいう「ミステリー小説」とは、原義どおりの「謎めいた物語」という意味である。『ブラッディ・マーダー』には「荒唐無稽に堕しかねない恐れがある」とし、セイヤーズは「犯罪オムニバス/序文」で、シモンズと同じように、「もちこまれる犯罪がいかにも怪奇で信じがたいものばかり」という欠点はあるとしつつも、ポーの「マリー・ロジェー」型に忠実な純知性派であり、「推理は緻密で明快だ」と評価している。

 幾多の欠点(ある種の人にとっては魅力?)をもちながら、『プリンス・ザレスキー』が探偵小説の歴史に名を残しているのは、これが「マリー・ロジェー」型に忠実な純知性派、いわゆる「安楽椅子探偵」の形式をとった最初のシリーズだからである。隠遁生活をおくるロシアの亡命貴族ザレスキー公爵のところに、語り手が謎めいた事件を話しに赴き、ザレスキーは事件のあらましを聞いただけで、その真相を見抜く。

 持ち込まれる事件は、いかにも怪しげである。「オーヴンの一族」は、名門一族の当主の死体の側に、彼の愛人が猟刀を持ったまま、指を切断されて倒れているという事件である。愛人は当主を刺したことは認めたが、死因は銃によるものだった。「エドマンズベリー僧院の宝石」では、僧院で東洋人の召使と暮らす貴族の日記が持ち込まれる。召使は深夜、僧院秘蔵の宝石をたびたび取り替えるという謎の行動をとる。最後の「S・S」では、さらに奇怪な事件が語られる。ベルリンの貧民街で死んだ女の口から、古代パピルスの断片がみつかり、それを調べていた医師も、同じように口にパピルスを入れて自殺した。以来、三週間で8000人が自殺するという、ヨーロッパ中に疫病のように自殺が流行する事件だ。ザレスキーはパピルスに書かれた図形の暗号を解くことで、恐るべき陰謀に気がつき、それを阻止するため、ついに城を出る。

 このような事件の真相を語るザレスキー公爵は、ご神託を下す異教の神といった風貌であり、ゴシック小説に出てきそうな人物である。

彼は宏荘な住居の中で、「精神を沈静させるための習癖」として「麻薬性の印度大麻(カナビス・サティヴァ)――回教徒の用いる麻薬(バング)の基となるもの――の煙」を喫い、「古代メンフィス人の木乃伊」など「多種多様な骨董品の数々」に取り囲まれて暮らしている。「古今無比の鑑定家――学識深い非職業的な――であるとともに、碩学であり思想家であることは、世界じゅうで誰知らぬものはない」という人物であった。(戸川安宣/『プリンス・ザレスキーの事件簿』解説)

 A・E・マーチによれば、ザレスキーの風貌には、ポーのデュパンと同時に、ユージェーヌ・シューが『巴里の秘密』で創造したロドルフ公爵の影響が多いという。

ザレスキー公爵のこうしたエキセントリックな性格は、おそらく当時爆発的人気をよびおこしたシャーロック・ホームズとできるだけ異なった主人公を創造したいというシールの願いにもとづいたものかもしれない。二人とも麻薬の常習者である点をのぞけば、この両者の違いはほとんど正反対といってもいいほど対照的だからである。
(中略)
彼はインテリゲンチャ向きの探偵であって、無教養な読者向きの探偵ニック・カーターと最も鋭い対照をなす探偵であった。(マーチ「推理小説の歴史」)

 しかし、その「インテリゲンチャ向き」は、鼻持ちならない階級意識にも通じる。「オーヴンの一族」の中で、容疑者の一人である当主の子息を嫌疑から外すのに、ザレスキーは以下のような「論理」を用いる。

名家の生まれで、わたしたちの考えるところでは、普通の人に劣らず良心的で、世間でも高い地位を占めている。現在わかっているいかなる理由から考えても、そういう人物が殺人を犯すとか、それを黙認するなどとは到底想像もできない。心の中では、明白な証拠があろうとなかろうと、われわれには彼がそんなことをするとは、ほとんど信じられない。貴族の子息というものは、実際、人を殺したりしないものだ。(創元推理文庫/p33)

 ザレスキーの推理は、セイヤーズが言うような「緻密で明快」というより、妄想に近い。客観的な証拠がなく、はたしてそれが当っていたのかどうかが、よく分からないままになっていることから、よけいそう感じる。まさに「ご神託」なのだ。とくに最後の「S・S」がそうで、そこで語られる「真相」は、まともな常識ではほとんど信じがたいものである。社会不安がおした妄想、としか思えない。

 もちろん、こうした登場人物の言動を作者の本意と混同してはいけないことは、充分に分かっているつもりだが、シールの場合はそうではないと思われる。というのは、引き続き発表した長篇 The Yellow Danger (1898) が、日本人の父親と中国人の母親をもつイェン・ホゥ Yen How 博士が白人種を葬り去ろうとする、典型的な軍事的「黄禍(イエロー・ペリル)」小説であるからだ。「イエロー・ペリル」という言葉は、この小説で作られたという。シールがこの種の偏見にとらわれていたことは間違いない。



 さて、19世紀中に現れたシリーズ・キャラクターのうち、もう一人の重要人物は、E・W・ホーナング E(rnest) W(illiam) Hornung (1866-1921) が創造した紳士強盗A・J・ラッフルズである。

 ホーナングは英国のヨークシャーに生れたが、健康に優れず、18歳で療養のためオーストラリアに渡る。帰国後、オーストラリアを舞台にした処女長篇 A Bride frome the Bush (1890) を発表。引き続き、同地を舞台に短篇集 Under Two Skies (1892) や長篇 Tiny Lutrell (1893) 、The Boss of Taroomba (1894)、The Rogue's March (1896) などのロマンティックな犯罪と冒険の物語を書いた。A・E・マーチの『推理小説の歴史』によると、ホーナングは《ストランド・マガジン》の寄稿者としてはコナン・ドイルよりも先輩で、ホームズ物語が登場するより早く、オーストラリアのジャングルを舞台にした物語を同誌に寄稿している。そのドイルの妹コンスタンスとは、1893年に結婚。

 ホーナングの最も有名な作品は、A・J・ラッフルズのシリーズである。「十九世紀の末、人気の点でシャーロック・ホームズに対抗した唯一の小説主人公」(『推理小説の歴史』)と呼ばれるこの紳士強盗は、1898年6月の《キャッセルズ・マガジン》に登場した。

 ラッフルズクリケットのアマチュア選手として著名なイギリス紳士で、同時に趣味と実益をかねて、ひそかに押込み強盗を行なっている。ラッフルズの冒険を語るのは、パブリック・スクール以来の親友バニー。二人の夜の冒険と友情は、『二人で泥棒を』 The Amateur Cracksman (1899)、『またまた二人で泥棒を』 The Black Mask (1901)、『最後に二人で泥棒を』 A Thief in the Night (1905) の三冊の短篇集で語られている。またこのほかに長篇の Mr. Justice Raffles (1909) もある。

 ラッフルズは、探偵小説ジャンルに最初に現れたシリーズ犯罪者キャラクターではないが、英国産の最も有名な犯罪者キャラクターである。もちろん、世界的に最も著名な紙上怪盗はアルセーヌ・ルパンであろうが、そのルパンにしろ、ラッフルズのようなものを書いてくれと云われたルブランが創造した人物なのだ。

 犯罪者を主人公にした物語は、それまでにも多く書かれれいる。探偵小説が姿をあらわす前から、犯罪者ヒーローものはすでに存在した。19世紀前半までは、イギリスでもフランスでも、犯罪者を同情的に描く物語が主流を占めていた。それらの物語の主人公とラッフルズは、あきらかに違っている。

ホーナングは当時の先行作家と異なって、ラッフルズなる人物をその生まれ育った上層階級の敵としては描かず、たとえ強盗稼業を職としていようと、なおかつ上流社会の規範に則った行動を取らせた。事実、ラッフルズ南アフリカボーア戦争で英雄的な死を遂げ、かくして彼の、また相棒バニーの、犯罪的な生涯を帳消しにしたのである。(『ブラッディ・マーダー』p137-138)

 ラッフルズヴィドックのような素性卑しき人物ではない。外見的にも心情的にも、立派な英国紳士なのである。それは例えばラッフルズが映画化された際、彼を演じた俳優がジョン・バリモアであり、ロナルド・コールマンであり、デイヴィッド・ニーヴンであるのを見てもわかるだろう。しかし、ホーナングの手柄はそれだけではない。

ジョージ・オーウェルは、「英国風殺人の衰退」というエッセイのなかで、もっと力量の劣る作家であれば、盗賊というアンチ・ヒーローの身分を貴族か准男爵に設定してその落差を最大限にし、派手な効果を狙っただろう、と指摘している。ホーナングはラッフルズを単なる紳士にとどめた。露骨でこれみよがしのものをつまらないと考え、目立たないけれども真実に即したものを好む作者の嗜好が、ほかにも随所に見られる。(H・R・F・キーティング『海外ミステリ名作100選』p34)

 ホーナングはラッフルズ執筆前に、「シャーロック・ホームズの一種の裏返し的人物」を主役にした話の構想を、義兄のドイルに相談している。ドイルは「この「危険な提案」に強く反対し、「犯罪者を主人公にすべきではない」と熱心に説いた。」(『わが思い出と冒険』/『推理小説の歴史』より孫引き)しかし、ホーナングはその忠告を無視して作品を発表する。自らの作品が決して不道徳なものではないという自信があったのだろう。ラッフルズものの最初の短篇集は、コナン・ドイルに捧げられている。

 ホーナングにはほかにも、《ストランド・マガジン》に1904年から1905年にかけて連載された「血生臭いスティンガリー Sanguinary Stingaree」シリーズを集めた短篇集 Stingaree (1905) や、19013年から1914年に《レッド・マガジン》に連載された犯罪博士(クライム・ドクター)ジョン・ダラーを主役にした作品を集めた短篇集 The Physician Who Healed Himself (1914) などがある。しかし、ラッフルズ以外の作品は、現在ではほとんど忘れられている。

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 アーサー・モリスンのマーチン・ヒューイット、M・P・シールのプリンス・ザレスキー、そしてE・W・ホーナングのA・J・ラッフルズ。平凡人の探偵、奇矯な隠匿者の探偵、そして泥棒と、彼らはそれぞれに、シャーロック・ホームズのイメージから離れようとして考え出されたキャラクターである。それだけ、ホームズの呪縛は大きかったといえる。そして、こうして考え出されたキャラクターは、それぞれが新たな典型として、名探偵の型の流れを形作っていくことになる。