怪盗の宝(その1)

 山中ホームズの第3作は『四つの署名』を原作とする『怪盗の宝』である。もちろん、この題名は、ショナサン・スモールが手に入れたアグラの大財宝に由来する。原作は一部・二部とは銘打たれていないが、実質上は最終章の「ジョナサン・スモールの奇怪な物語」が過去の因縁の物語であり、『緋色の研究』や『恐怖の谷』と同じ二部構成になっているのも、ご存知の通り。


 山中版では、三部構成をとっている。「第一部 義足の怪敵を追いかけて」「第二部 流れに飛んだ蛮人の最後」「第三部 開かれた宝の鉄箱」というのが各部の題名で、第三部は全体の4分の1。原作は5分の1ぐらいだから、少し詳しく語られている。それはおいおい見ていくとして、まずはロンドンの物語を鑑賞しよう。こういう風にはじまっている。

「ホームズ!」
「なにかね? だしぬけに、おどかすなよ」
「君が、おどろくかね? 君は、こんなことを、ぼくに、いばって聞かせたことがあるぜ。おぼえているかい? 「ふと言ったこと、おもわずしたことによって、その人の性質や、なにを商売にしているかなど、たいがい、わかるものだ」と、いったい、それは、百発百中なのか?」

 と、ワトソンがホームズを試そうと、古い懐中時計をわたす。ホームズは「朝から試験か」と文句をいいつつも、ワトソンの挑戦を受けて立ち、古時計からたちまち持ち主の性格を見抜いてしまうのだ。このエピソードは、原作どおりだが、原作を読んでいる人なら当然、あることに気がつくだろう。そう、ホームズがコカインを打つ、例のシーンがないのだ。

 これまで読んできたかぎりでは、山中ホームズは元気ハツラツ、大飯を食いながら精力的に探偵行為に乗り出し、倦怠感や虚無感などとは無縁である。本作でも例外ではない。原作の『四つの署名』はホームズ全作品中でも、怪奇色、伝奇色が濃厚な作品といえる。全体に暗く病的で陰鬱なムードに彩られており、それはインドの財宝や人食いの蛮人などが出てくるからだけでなく、ホームズがコカインに溺れているというエピソードも、重要な要素となっている。しかし、健康的で精力的な山中ホームズでは、同じ怪奇的な要素を描いても、明るいグロテスクなものになってしまっている。

 そんな健康的なホームズの元にやってきたのは、メアリー・モースタン嬢。原作では家庭教師として勤めるセシル・フォレスター夫人の推薦でホームズを訪ねてきたのだが、山中版では違う。

「「深夜の謎」と「恐怖の谷」の、ご本を読みまして、わたしく、おふたりの先生に、ぜひ、おねがいがありまして」

 と言っているように、ワトソンの著書でホームズを知ったのである。この作品世界では、ワトソンの本からホームズは一般にも名の知られる名探偵となっている。それどころか、変装して事件を調査しなくてはいけなくなったのも、ホームズに言わせれば、ワトソンのせいなのだ。

「フーッ、ぼくに悪人どもが、目をつけだしたのでね。ワトソン君が「深夜の謎」だの「恐怖の谷」だの、ぼくの探偵事件を書いて、出版したものだから、実はめいわくしているのさ。」(p176)

 ただし、これは実は原作どおりでもあって、原作のホームズはこう語っている。

「このごろ悪人どもがたいぶ僕の顔を知ってきたんでね。とくにワトスン君が僕の手がけた事件を書いて出版するようになってからというもの、それが目だつ。だから、やむをえず、こうした簡単な変装で仕事に出るのさ。」(延原謙訳)

 なんと、ホームズの変装は、ワトソンの創作活動のせいだったのだ。それでも、ホームズはワトソンが手柄話を書くことを本心から嫌がってはいないようで、山中版でも、「こんどの記録も、ぼくは今から書いておくぜ」と意気込むワトソンに対し、

「フム、ワトソン博士自身の気もちの動きも、そのまま書いておいてもらいたいね」

 と、茶々を入れるくらいだ。これはモースタン嬢に一目惚れしたワトソンが、ことあるごとに自分の心情を書き立てる原作への、軽い揶揄なのかもしれない。しかし、山中ワトソンはホームズがこう言ったにもかかわらず、

 メアリー嬢を、ぼくは馬車で、フォレスタ夫人の家に、おくって行った。とちゅう、馬車の中で、いろいろ話しあった、が、この探偵記録には、関係のない話だから、書かずにおこう。 (p112)

 などとうそぶいて、「自身の気もち」をあまり書いてくれない。案外、奥ゆかしいのである。

 そんなワトソン博士の目に、モースタン嬢は最初、どう映ったのであろうか。

かがやくような銀髪、上品な顔つき、理知的な目いろ、服そうは、じみだがキリッとしている。年は二十一か二くらいだろう。

 あれ? 原作のモースタン嬢は髪はブロンドで、このときたしか二十七歳じゃなかったけ? と思っていたら、あとで、こう言っている。

「ことし二十七だ。はじめは二十一、二かと思ったが、十七の時に、おとうさんがインドから帰ってきて、それから十年たっているんだ」

 おやおや、最初の「年は二十一か二くらいだろう」は、この文章を執筆時の奥さんに対する気遣いだったのかな?