恐怖の谷(その2)/暗号の不思議

 さてさて、山中ホームズ版『恐怖の谷』の第2部は、「謎の暴風と荒波」と題して、原作の第1部、つまりホームズの活躍が語られる「バールストンの悲劇」に相当する。


 しかし、この第2部の題名は、初めて読む者にはかなり謎であろう。暴風や荒波は、事件の舞台にも、ホームズの推理にも、関係ないからだ。原作を読んだことのある人も、すぐには分かるまい。

 ワトソン博士の手記は、まずホームズの近況から語られる。「変人であり一種の偉人」という形容は、第1作から引き続いて使用されている。そのホームズが近ごろ、ご機嫌があまりよくない。なぜなのか? ワトソンの探偵記録が「ストランド」に連載されたため、ホームズ人気となり、くだらない事件がつぎつぎとホームズのもとに持ち込まれるようになったからだ。

 つまり、山中版ホームズ世界では、『緋色の研究』に相当する『深夜の謎』は、「ビートンのクリスマス年鑑」に一挙掲載されたのではなく、「ストランド・マガジン」に連載されたことになっているのだ。しかも、にわかに「ストランド」が売れだし、ホームズはたちまち大衆の人気を得たらしい。ホームズはこんなことになったのはワトソンのせいだとなじり、ワトソンも責任を感じて、つまらない事件のことわり係を引き受けることになる。

 そこに、謎の男ポーロックから暗号文の手紙が届く。ポーロックは暗(やみ)の帝王モリアチイ教授の犯罪を、事前に警告してくれたのだ。その暗号文だが、原作では以下のようなものである。

534 C2 13 127 36 31 4 17 21 41
ダグラス 109 293 5 37 バールストン
26 バールストン 9 127 171

それが、山中版では次のようになっている。

52 13 36」 134 8 23」 ダグラス」 87 9 17」
275 11 38」 バールストーン」 234 7 48」

 違いがお分かりだろうか。数字の内容ではない。山中版では、3数字ごとに、区切り記号がついているのである。

 どちらも、ある本に書かれた単語を使った暗号だというのは同じである。原作でのホームズの推理は、最初の534が本のページを、次のC2が段(コラム Column)を指し、以下はその段の何番目の単語かを示しているというものだ。その本が何かを、ワトソンと供に推理するのが眼目である。

 では山中版はどうか。三つごとに区切られていることに着目し、それがある本の何ページ目の何行目の何文字目を示していると(ワトソンが)推理する。たしかに原作では暗号文に区切りがないため、どこで区切るのか不明だし、最初の2文字だけが残りの数字と別のものを示していると推測する根拠は、何もない。それにしても、このワトソンの推理では、一行に36文字目とか、48文字目があることになり、日本語や中国語のような文字大系ならいざしらず、英語のように単語で区切られている言語では、一行の単語数があまりに多いことにならないか。また、その推理では、暗号で指し示す単語は全部で五個となってしまい、意味ある文章にするには、あまりに少ない気がする。

 と、さまざまな疑問がわき、さあ、山中ホームズがこれをどう解決してくれるのかと期待していると、暗号文を解こうとしたとたん、事件を依頼すべくマクドナルド警部がやってきて、暗号文を見てびっくり仰天。その騒ぎの中で、なんと、解読は忘れられてしまう。ポーロックが何を伝えようとしたのか、ついに不明のままである。

 原作のマクドナルド警部は、ホームズが解いた暗号の訳文をみて、つい今しがた連絡の入ったバールストン荘の主人ダグラス氏の惨殺事件が、すでに予告されていることに驚くのだが、考えてみれば、殺人警告の最も重要な二つの単語「ダグラス」「バールストン」は、暗号を解かなくても示されている。山中版のように、暗号文だけを見て、殺人の予告あるいは警告とわかるのである。このことは、逆にいうと、ポーロック先生、モリアーティに見つからないように暗号文にしたものの、肝心の固有名詞をそのまま書いてしまっては、何を連絡しようとしたか、一目瞭然だということである。暗号を解読しないままにしたのは、山中峯太郎がそれに気がついて、ちょっとドイルをからかったのだろうか。