怪盗の宝(補遺その2)

 では、今度は最後の文章。おおくは、ワトソンが「僕は(この事件の)おかげで妻まで得るし、ジョーンズは名声を博する。それで君自身はいったい何を得るんだい?」という問いかけへの返事である。もちろん、原作はこうだ。

「僕か、僕にはコカインがあるさ」といってその瓶をとるべく、シャーロック・ホームズはほっそりした白い手をのばした。(延原謙訳)

 これが児童書の場合、このようになる。

「ぼくか。ぼくにはただ、ねむりがあるだけだ」
 ホームズは、ねいすの上に長々と身を横たえて目をとじた。(講談社《世界名作全集》『四つの署名』久米元一訳/講談社《名作選名探偵ホームズ》『恐怖の4』久米元一訳も同じ)

「ぼくか。ぼくにはただ、ねむりがあるだけだ」
 ホームズはそういって、ねいすの上に、長々と身をよこたえて、目をとじるのだった。(偕成社《世界推理・科学名作全集》『四つの署名』久米元一訳)

「いやあ、ぼくには、ものごとをやりとげたという満足感と、そのあとの安らかな眠りがあるさ」
 ホームズは、そういうと、ソファーの上に長ながと横になり、静かに目をとじた。(小学館《名探偵ホームズ全集》『古城の怪宝』久米みのる訳)

「それじゃスモール君、今夜はぐっすり眠ることだね」
「へえ、ホームズの旦那も、そちらの坊やも、それじゃおやすみなさい」
 あわれなスモールは、のんきそうに大きなあくびを一つした。(偕成社《世界名作文庫》『名探偵ホームズ』柴田錬三郎訳 /《少年少女世界の名作》『名探偵ホームズ』も同じ)

「ワトスン君。われわれは、すこしも犯人をつかまえた気持ちがしないね。これは、どういうわけかな。……」
 そういって、パイプをくわえた。
 ぼくとメリー=モースタンは、それからまもなく婚約した。ふたりが結婚したのは、一八八七年十月一日のことである。おち葉のうつくしい季節だった。(偕成社《名探偵ホームズ》「四つの暗号」武田武彦訳/春陽堂少年少女文庫「四つの署名」は少しだけ文章が違うが、ほぼ同じ)

 やっぱり久米元一と久米みのるの文章は似ているなあ。*1それにしても、久米ホームズたちは、ねいすやソファーが好きだ。『緋色の研究』の最後も、長いすに寝ころがっていた。柴田錬三郎版の「坊や」というのは、ウィギンズ少年である。なんと、柴田版にはワトソンが出てこず、ウィギンズ少年が全編を通してワトソン役となるのだ。これについては、後述。

 で、問題は、武田武彦版である。ワトソンの結婚の日付が1887年の10月1日と、明確にしてあるではないか。こ、この説は、どこから出てきたのかッ?? 結婚の年代については、1887年説と1888年説があったはずで、たしか長沼弘毅の『シャーロック・ホームズの対決』で詳しく論考されていたと記憶する。最初の相手は、ベアリング=グールドの珍説を除いては、もちろん、『四つの署名』のヒロイン、メアリー・モースタンである。*2

 ということで、偕成社版の『四つの暗号』を見てみよう。

 前回見たように、ここでのホームズはコーヒー中毒である。しかし、実はコカインをやらなかったわけではない。「むかしからホームズには、わるいくせがあった。それは、たいくつをまぎらわすために、コカインの注射をすることだ。」と述べられている。コカインよりはマシ、ということで、コーヒーにしているようなのだ。ホームズの退屈をまぎらわそうと、ワトソンは旅行を勧める。

「ホームズ。きみは、それより旅行にでないか」
「どこへ」
「日本はどうだろう」
「ぼくをフジヤマへ登らせようというのかい」

 などという会話があって、さてモースタン嬢の登場である。ホームズは彼女の姿を見たとたん、「なんでもてきぱきとかたづけられるあなたが、そうして手のゆび先をふるわしているのは、よほどのなやみがあるからです」と、原作にない推理を披露して驚かす。そして、彼女が帰るとすぐ、「この事件も、たいしてむずかしくはなりそうもない」とうぞぶくホームズに、ワトソンは

 せっかくホームズのたいくつな時間を、なくすような事件が持ちこまれてきたのに、こう早く解決してしまっては、またぼくは、かれのコカイン中毒を心配しなくてはならない。

 と落胆するのだ。

 もっとも、ワトスンの関心がもっぱらモースタン嬢にあったことは、間違いない。「ホームズ。きみは、もうすこしやさしくしてやれないのか。あれじゃ、まるであの人は、きみに叱られにここへきたようなものだよ」と、ホームズをなじったり、また、父親の行動に疑問が呈されると、

「あの人の目には、すこしの曇りもないもの」
「ワトスン君。きみは、わからないことをいうね。きみは、モースタン大尉にあっていないはずだが?」
「あの人の父親ならばさ」

 などと言うしまつ。しかし、原作にあるような、馬車で会話したり、暗闇で手をつないだり、夢に見たりしない。アグラの大財宝を開ける場面も、偕成社版では、ホームズが同席していて、ワトソンの愛の告白はないのである。だから全体を通して読むと、最後の婚約がいささか唐突にも感じられる。

 ところで、このアグラの大財宝だが、インドの王族の宝ではなく、奴隷商人アクメがため込んだ財産ということになっている。冒頭の「この物語について」という訳者のことばでも、「どれい商人のぶきみな呪いがかけられた、五十万ポンドというアグラを宝をめぐって、つぎつぎと奇怪な事件がおこります。」と紹介されている。やはり、王族の宝では、イギリス人たちに権利がないと判断したのだろうか。

もうひとつ、人物設定に変更がなされている。アンダマン島でショルトー少佐とモースタン大尉をトランプで負かす軍医サマトンは、ワトソンと旧知の間柄とされているのだ。ホームズの名前を聞いたスモールは、驚いてこう語る。

「えっ! シャーロック=ホームズ? すると軍医からきいた、ホームズさんはあなたですかい」
 スモールは目をむいた。
「その軍医は、ぼくのことを知っているのかい?」
「へえ。おれとトランプをして勝てるのは、ロンドンのベイカー街にいるシャーロック=ホームズさんだけだ。あの人は、トランプだけじゃなく、どんなむずかしい事件でも、警察よりも先に犯人をつかまえてしまうんだ。そういって、だんなのことを、いつもじまんしていましたよ」
「その軍医はなんていったっけね?」
「サマトン軍医です。なんでもワトスンとかいう医者が、そのホームズさんの友だちで、軍医はその人の紹介であったことがあるそうですよ」
「スモール君。……その医者は、ここにいるよ。サマトン軍医が生きていたとは、ほんとにゆめのような話だ」
 ぼくはおなじ野戦病院にいた、あのトランプずきの軍医の顔を思いだして、びっくりした。

 たしかにワトソンもインドに軍医として行っているのだが、どうも、年代がズレてやしないか? モースタン大尉がロンドンに帰ってきたのが1878年だが、その年にワトソンは医学博士の学位を取得しているのだ。

 題名が「四つの署名」ではなく、「四つの暗号」というのは、最後にこう説明される。

「(四人のサインを)われわれは、なにかの暗号ではないかと、ずいぶん考えた。まさかおまえたちの誓いのサインだとは思わないからね」
 ホームズは笑った。
「そうですかい。やつらのサインは、まるで暗号みたいな字だからね」(p216)

 「四つの署名」では、児童向きにインパクトが少ないと思ったのかもしれないが、それにしても、題名のための、苦しまぎれの説明のような気がするなあ。

*1:久米みのるは、久米元一の息子であった。/2008/07/12追記

*2:ぼくは見ていないのだが、グラナダ・テレビのホームズ・シリーズでは、ワトソンとモースタン嬢は結婚しないで終わるそうだ。これは、たぶん、ワトソンが結婚してしまうと、ホームズとの同居がなくなり、映像的に困難になるからだろう。