怪盗の宝(補遺その3)/ワトスン、撃て! 


 『四つの署名』のテムズ河追跡シーンでは、ワトスンもホームズと共に拳銃を携帯し、クライマックスでは蛮人トンガに向けて発砲する次のようなシーンがある。

 ホームズはいつのまにかピストルを手にしていた。私もその獰猛な異形の男を見て、すぐにピストルをとりだした。(中略)
「あいつがもし手をあげたら、容赦なく射つんだよ」ホームズがおちついた声でいった。
(中略)
 彼は私たちの見ているまえで、着衣の下から定規のような丸い棒をとりだして、口もとへもっていったのである。それを見て、私たちのピストルは同時に鳴った。と、彼は両腕を前へつきだし、締め殺されるような叫び声とともに、もんどりうって河のなかへ落ち込んだ。水煙のなかに、威嚇的な気味のわるい眼差しがちらりと見えた。(延原謙訳)

 毒の吹き矢で襲われそうになったための正当防衛として描かれているが、ワトスンが直接的な殺人を犯したかもしれないシーンである。このシーンを、児童向けホームズ作品は、どう描いているのだろうか。

 まず、山中峯太郎版。敵の船上にトンガを見つけたワトソンは、全員に注意を促す。銃をかまえるのは、警察官たちもいっしょだ。

 獣のような蛮人が、うつむいた。グッと顔をあげた。両手に太く黒い棒をもち、口へあてた。
「吹き矢だ、危険! 打てっ!」
 ホームズがさけび、ぼくたち皆が、ねらっているピストルと打ちはなした。ひびきと共に、
「ギャーッ!」
 すごい蛮人の声が、ぼくたちの耳を突きさし、黒い棒を両手にもったまま、前へまっさかまさに、蛮人のからだが頭を下へ、舷から流れ落ちこんだ。水のしぶきが上がった。

 船に乗る前に、ワトソンも六連発ピストルを携帯しているから、当然、このとき打ったのだろう。しかし、原作のような、ホームズと二人での射撃よりは、警察官たちも一緒に行動させているのは、リアリスティックである。

 次は偕成社版の武田武彦。これは、章のタイトルからして、「ワトソン、撃て!」だ。

「ワトスン。あいつが、ちょっとでも動いたら、かまわず撃つんだ!」
 ホームズが叫ぶと、ちょうどそのとき、アンダマン土人が、まるい棒のような筒をとりだして、口にくわえた。
「ワトソン、撃て!」
 ぼくとホームズは、どうじにピストルを撃った。
「ぎゃーっ!」
 アンダマン土人は、ものすごい悲鳴をあげて、川の中へころげおちた。

 ところで、偕成社版では、ワトソンはピストルの名人になっているのである。それは、前に触れた『恐怖の谷』の中で明らかにされている。ホームズが夜、館の探索に行こうとするシーンだ。

「こうもり傘だけで、だいじょうぶかい? ピストルをもっていきたまえ。」
 ワトスンは、まだ心配そうであった。
「ピストルをもっていくほど、危険なしごとなら、きみについてきてもらうよ。なにしろ、きみはピストルの名人だからね。」(野田開作訳『恐怖の谷』p104)

 だから、今回も、命中させたのはワトソンなのかもしれない。

 次は小学館版《名探偵ホームズ全集》の久米みのる訳。

「ワトスン、ピストルを取れ。」
 ホームズはさけびながら、自分もピストルをかまえた。ぼくも、すばやく取りだし、安全装置をはずした。(中略)
「や、吹き矢筒を取りだすぞ。ワトスン、やつが筒に口を持っていったら、すぐうて、おくれれば、こっちがやられるぞ。」
 (中略)小人は、すばやくオーバーから細長い筒のようなものを取りだし、いっぽうのはじを口にくわえた。
 同時に、ホームズとぼくのピストルが、火を吹いた。
「ぎゃあっ!」小人は、黒い風車のようにまわると、両腕を前につきだし、頭から川についらくした。
 さっとあがった水煙のなか、不気味な目がきらりと光ったが、つぎのしゅんかんには、川波にのまれ、二度と現れなかった。

 こちらは安全装置まではずしているから、言い訳は出来そうもない。しかし、児童向けのトンガは、声を合わせて、ぎゃあっ、と叫んでいるなあ。あまりにトンガを哀れと思ったのか、久米みのるはモースタン嬢に「でも、小人のトンガはかわいそうなことをしましたね。」と語らせている。

 最後はご存知、柴田錬三郎版。偕成社版《少年少女世界の名作》から。

 ホームズ探偵は、いつのまにかピストルをかまえていた。もちろんウィギンス少年も、ピストルをかまえている。
(中略)
「いいかね、ウィギンス君。あいつがちょっとでも手を口のところにもっていきそうになったら、ピストルを射つんだよ。……あいつ、まだ吹矢をもっているんだ」
(中略)
 と、野蛮人が、とっさに、まるい筒のようなものをとりだすと、それを口のほうへもっていくではないか。しかし、
「ダ、ダーン!!」
 ホームズ探偵とウィギンス少年の同時に発射したピストルのほうが、一瞬はやかった。
「ギャ、ギャーッ!」
 異様な怪鳥のような叫び声を、のどの奥からほとばしらせて、野蛮人は黒いかたまりとなり、もんどりうって川の中へ落ちこんだ。
 しかし、こいつはあくまで執念ぶかく、水けむりの中から、うらみのこもった目をむいて、ホームズ探偵をにらみつけた。

 すでに述べたように、シバレン版ではワトソンが出てこず、ベイカー街少年探偵団のウィギンス少年がホームズと行動を共にする。少年がピストルを携帯していいのか、と疑問の向きもあろうが、船に乗り込む前、ホームズが「ほらウィギンス君、きみもこのピストルをもって行きたまえ。いざというときの用心だ」と渡しているのだから、保護者のお墨付きなのだ。しかも、トンガの断末魔の声は、ギャ、ギャーッ!、と怪鳥のような叫び声にされている。そりゃあ、うらみのこもった目を剥きたくもなるだろう。だからなのか、最後のシーンでウィギンス少年は後悔する。

「ぼく、ピストルを射つつもりはなかったんだけど……」
 とウィギンス少年は、長い物語をきいたいまは、なんだかトンガをやっつけたことが、すまないように思えた。

 そこですかさず、ジョナサン・スモールが「とんでもない。トンガを射たなきゃ、坊や、あんたがオダブツだよ。」と、逆になぐさめる。アグラの財宝と共に、トンガの怨みもテムズ河の底に永遠に沈んでしまったのだ。